
『何でもシテあげる券』 (シンジ誕生日記念) by イイペーコー |
自他共に認める美少女――惣流・アスカ・ラングレー嬢は実に素直ではない。 既に意中の相手を自身の照準機のど真ん中にロックオン済みであるというのに、その想いを口に出して告げる事など決して出来はしない。 もっとも、その直接的に意中の相手の名前を口にしていないだけで、周囲の殆どの面々――具体的には、彼女が所属している某特務機関の職員達や、学校のクラスメート達などは、惣流・アスカ・ラングレーが、同居人兼同僚兼クラスメートの碇シンジにベタボレである事は周知の事実である。 来日当初は彼女の美貌に惹かれて、告白したり、ラブレターを送ったりする輩が数多く存在していたものの、最近においては登校から始まり休み時間も語るに及ばず、そして当然の如く下校時間に至るまで、アスカはシンジの傍から離れようとせず、さすがにそんな光景を毎日見せつけられていては、周囲の男子生徒達が諦めの境地に至ったとしても仕方あるまい。 それだけではない。 無謀にも――シンジに告白しようとした女生徒に対しては、事前に野性的とも言えようオンナの勘を働かせ、彼の周囲5メートル圏内にその少女が足を踏み入れる前に相対し、至近距離からその少女の目を睨みつけ――所謂ガンツケ的な行為によって威嚇し、無条件降伏に至らせた事は1回や2回程度では済まない。 そう――これほどに判りやすい態度で示していながら、彼女――惣流・アスカ・ラングレーは、自身が碇シンジに惚れている事を認めようとはしない。 約1名――碇シンジ、その本人を除けば既に説得力は皆無と化しているが、「私は加持さん一筋なのっ!」という自己主張を繰り返して止まない有様なのである。 無論、その約1名――碇シンジが彼女の主張を全面的に信じており、「加持さんが相手なら勝てっこないよ…」と、半ば諦めモードに入っている事も付け加えておこう。 このような実に不安定な状態を当人――惣流・アスカ・ラングレー嬢が良しとしているのかと思えば、決してそう言う訳ではないようだ。 いい加減、シンジと相思相愛状態になりたいという、極めてピュアな乙女心もちゃんと有しているのである。 「まったくもうっ、早くシンジの方から告白してくれれば、こんな手を使わずに済んだのにっ」 自室のカレンダーと睨めっこをしながら、何やら綺麗に包装されリボンが添えられた封筒サイズの包み紙を手にしてボヤいている。 端的に言えば、シンジと正式に彼氏彼女の関係になりたい気持ちは強く持っているものの、あくまでもシンジから言い寄られて、“仕方なく”“やむを得ず”“しぶしぶ”告白を受け入れて恋人同士となり、今後生涯に渡って主導権を握り続ける確約を取り付けたいと考えているアスカなのであった。 時刻は午前6時半。 普段ならば、同居人であるシンジが起こしにきてくれるまで安眠を貪っている時間帯であろう。 何故、このような早朝に起床する必要があったのかと言えば、その睨めっこの相手であるカレンダーに理由が書いてあった。 今日を指し示す6月6日に花丸付きの二重丸が赤字で記され、更には“決戦の日”と力強いゴシック体の文字が添えられている。 言うまでも無い――今日、6月6日は碇シンジの誕生日である。 彼の誕生日に何らかのアクションを起こし、二人の関係のステップアップを狙っている事は間違いあるまい。 「ミサトの買収には少々出費が掛かったけど、おかげで今日はシンジと二人っきりの状況が作れたし、これで準備万端という所よね」 つい先日、ミサトを缶ビール1ダースで買収し、不定期に行われている初号機と弐号機のシンクロテストをこの日にセッティングさせたのである。 既に全ての戦いが終わった今、実質的にはエヴァのシンクロテストを急いで行う必要性はない。 まして今日は平日である。 学校の授業を休ませてまでシンクロテストを優先させる事など、本来ならばありえない選択であった。 (この大事な日に、どんな伏兵が潜んでいるかもしれない学校にシンジを行かせるワケにはいかないものね) シンジに近寄ろうとしてくる“悪い虫”をことごとく撃退し続けてきたアスカであったが、この日に限って言えば、その危険性は2倍3倍と膨れ上がる事だろう――と考えたのである。 昔と違ってシンクロテストは形式的なものであり、決して深夜に及ぶ事はない。 更に言えば、ミサトとの交渉経過の中、貢物である缶ビールを10本から1ダースへと2本増加する事により、翌朝まで帰宅しないという確約まで取り付けたのである。 ネルフに出頭しテストを受けている間はリツコやマヤ達が周囲には居るものの、その時間帯を除けば、朝から晩までシンジと二人っきりという状況を作り上げる事に成功したアスカであったのだ。 「後は準備しておいたこのプレゼントを手渡してしまえば万事OK――なんだけど、シンジってば優柔不断だものね。 やっぱり善は急げで早く渡した方が間違いないわ」 思い立ったが吉日――という訳で、即行動に移すアスカであった。 無論、ターゲットは言うまでも無く、彼のフランチャイズである台所で朝ご飯の準備をしているのであろう碇シンジ。 自室を出る前に姿見で全身をチェックし、室内用(対シンジ限定用)の勝負服である肌の露出の多いキャミソール&ホットパンツに着替え、いざ出陣である。 もっとも、今までに何度もこの格好(しかもノーブラ仕様)で誘惑し続けてきたアスカであったが、向かう所、全戦全敗という憂き目に遭っている。 難攻不落の鈍感大王――碇シンジの砦を破るには、色気だけの攻撃では不足であるという事を経験済みであった。 そこで、この日に合わせたプレゼントである。 言うなれば、このプレゼントはアスカにとって最終決戦兵器であると言えよう。 もしも、この手段を以ってしても陥落しないのであれば、もっと大胆な――そう、年齢指定を要する描写は一切記載できないこのサイトでは、とても公開できないイヤーンな戦略に移行しなくてはならない事だろう。 精神的には徳俵に足が掛かった状態である。 そう――これは彼女にとって負けられない戦いなのだ。 (イクわよ、シンジっ!) ほんの一瞬――このセリフは二人でベッドを共にした時に口にしたいと――げほんごほん(汗) そんな妄想的な思考をとりあえず、頭の隅に追いやって、アスカは台所へと足を踏み入れると、静かに彼の背後を取った。 (貰ったわよ、シンジっ!) いや、別に命の取り合いをしている訳ではない。 背後を取ったからと言って、命中率がプラス方向に補正される訳ではないが、精神的には追い風に乗った気分なのであろう。 彼女の目の前には、学生服の上から愛用のエプロンを纏い、実に手際よく朝ご飯の支度をしているシンジの姿があった。 それにしても、何とエプロン姿の似合う事か。 無警戒なその彼の後姿を見れば、確かに裸エプ○ンの新妻を背後から抱き締めて、朝早くから、ついつい頑張ってしまう夫の気持ちが判らなくもない。 ちなみに“先生っ! 裸エプ○ンって何ですか?”――と、良い子は質問してはいけない。 そういう話もたまには書きたいのに書く事ができず(=公開する事ができず)、断腸の思いをしている某作者のヨコシマな妄想の断片なのだろうと察して貰いたい。 どうしても、何のコトなのか知りたい良い子は、五十音順に○の所に文字を当てはめていけば、かなり後半になって答えは導かれる事だろう。 ――さて、閑話休題。 絶好のポジションを取った筈のアスカであったが、意中の彼を前にして、ピュアな乙女心は否応無く彼女の胸を高鳴らせていく。 何度も何度もこの瞬間をシミュレーションした筈なのに、なかなか彼に声を掛ける事ができないアスカであった。 (こ、告白は何度もされたけど、こちらからしたコトなんて無かったし――って、そもそも、これは告白じゃないわ! ただ、プレゼントをあげるだけじゃないっ!) とはいえ、ただのプレゼントではない。 ある意味、彼女の全てを捧げるような可能性すら秘めているプレゼントなのである。 勝気な彼女であったが、その一歩を踏み出すのは相当な勇気が必要であった。 (逃げちゃダメっ、逃げちゃダメっ、逃げちゃだめなんだからっ!) ――と、内心、彼の十八番のセリフを念じつつ、実際には、半歩そしてまた半歩と、じりじり後退してしまうアスカ。 このままでは戦略的撤退もやむなし――という判断を彼女が下しかねないまさにその時であった。 「あれ? アスカ、おはよう。 今日は随分と早いね」 後ずさりをしていたアスカの足音に気付いたシンジが振り返り、結果的には逆に彼女の虚を衝く結果となってしまう。 慌てふためき、両手を振り回しながら裏返った声をあげるアスカであった。 「おおおおお、おはようっ、シンジっ! きょ、今日もいい天気ねっ!」 「?――いい天気って、今日も昨日に続いて雨が降ってるよ?」 「ば、バカねぇ、雨が降った方が涼しくて気持ちいいでしょ」 間の抜けた受け答えをしてしまった事が災いしてしまったのだろう。 更に慌てたアスカは、一層に両手をぐるぐると振り回してしまい――その結果、シンジへのプレゼントであるその封筒をするりと落としてしまう。 「あれ? なにか落としたよ、アスカ」 「うわをっ、触っちゃだめっ! ――って言うか、ダメじゃないけど、ちょっと待てっ!」 床に落ちた封筒サイズの包み紙を拾おうとその場で屈んだシンジであったが、吠えるように制したアスカの声に従って、中腰のままその身を引いた。 すると――慌てて前屈みの姿勢になったアスカの姿を至近距離で見守る形となり、その結果、露出度の高い彼女のキャミソールの胸元はなんの躊躇いもなく男子禁制の絶対領域をオープンにしてしまう。 しかも前述の通り、のーぷら仕様――である。 (うわっ――ぴ、ぴんく色っ) 思わず叫びそうになってしまったシンジであったが、辛うじて自らの口を塞ぎ、的確な目撃情報を口にする所だった声を自制する事ができた。 迂闊にもそのコメントを口にしていたならば、血の雨が降っていた事だろう。 (見ちゃダメだっ、見ちゃダメだっ、見ちゃダメだよねっ。 で、でも、ちょっとぐらいなら――) 時間にして僅かに2秒足らずといった所であろう。 シンジは自らの網膜にその甘美な光景をくっきりと焼き付けた後、彼の熱い視線にアスカが気付くぎりぎりのタイミングで大きく眼を逸らした。 どうやら、朝だと言うのに既に今夜のオカズは決まったようである。 叶うものなら、自分の身体にUSBケーブルを繋いで、等身大でプリントしたいと思ったコトだろう。 いかに異性からのアクションには鈍いといえども、彼もまた健康的なセイ少年――目の前に憧れの存在である彼女が居なければ、その喜びを溢れさせるようにガッツポーズを覗かせていた筈だ。 ちなみに、“先生っ! ナニがピンク色だったんですか?”――と、良い子は、以下同文である。 一方は大事な封筒を必死に拾おうとして。 もう一方は大事なヒトのタイヘンな所を凝視してしまって。 二人は揃って狼狽しつつも、屈んだままの姿勢で向かい合った。 「あのね、シンジ。 もしも間違っていたらごめんね。 今日って、シンジの誕生日だったわよね?」 間違っている筈などない。 不正にMAGIにアクセスし、シンジの個人情報を舐めるように閲覧して何度もチェックしたアスカである。 彼の生年月日は勿論の事、身長、体重、血液型などのデータも全てその秀逸な頭脳にインプット済みであった。 「それでさ――ほら、日頃から食事とか作って貰ったりして、シンジには色々とお世話になっているじゃない? そのお礼も兼ねて、プレゼントをしようと思ったの」 「プレゼント? アスカが、僕に?」 あまりにも意外過ぎて、一瞬、その言葉の意味を認識できなかったのだろう。 シンジは驚いた面持ちのまま、自身が洩らしたその言葉を確かめるように反芻して見せた。 そして、ようやく落ち着いて他の誰に対しての事ではなく、自分への事だと感じ取り、喜びを噛み締めるように笑顔を覗かせた。 「ありがとう、アスカ。 僕、嬉しいよ」 「た、たいしたモノじゃないんだからねっ! そんなに期待しないでよ」 恐る恐るといった様子で、アスカは手にしていた小奇麗な封筒サイズの包み紙をシンジに手渡した。 「これは――?」 誕生日の品の目録だろうか?――と思い浮かべたシンジであったが、彼女がそんな持って回るようなやり方をするとは思えない。 手にした包み紙を見つめながらシンジが小首を傾げていると、高鳴っている胸の内を隠し切れないのか、裏返った声で答えるアスカであった。 「あ、あけて見なさいよっ。 こ、この場でっ」 「うん、判ったよ、アスカ」 添えられていたリボンを外し、包み紙を丁寧に取り、更に封筒を開けると、その中には1枚のカードが入っていた。 まじまじとそのカードに書かれていた文字を見つめるシンジ。 最初は単なる誕生日カードなのかと思ったシンジであったが、そこには見慣れた彼女の直筆でこう書かれてあったのである。 “何でもシテあげる券” そして余白にはこんな注意書きが添えられている。 “利用者は碇シンジ限定。但し1回限り有効”――と。 「ええと、アスカ。 この“何でもシテあげる券”って――」 「その名の通りよ。女に二言はないわ。 アンタが望む事を何だってしてあげるわよ。 但し、そこに書いてある通りに1回限りなんだから、慎重に考えてからアタシに何をして欲しいのか言って頂戴ね」 「1回限りだけど――本当になんでもいいの?」 はたして健全な青少年の頭の中ではどんな想像が膨らんでいるのか。 手の届かぬ高嶺の花と思い諦めかけていた意中の少女からプレゼントされた1回限りのオールマイティな切り札を手にして、高ぶる想いをそのまま表すかのように彼の頬は赤く染まってしまう。 そんな彼に負けず劣らず、頬を真っ赤に染め上げたアスカは、穏やかではない内心を必死に抑えつつ、表面上は冷静な素振りを見せながら答えた。 「く、くどいわよ。 それはもう――シンジが望む事を何でもしてあげるわ」 こうして、惣流・アスカ・ラングレーの長い一日が始まったのである。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 采は投げられた。 朝食を摂った後、一緒にネルフへと向かった二人であったが、その移動の間は互いに無言のままであった。 おそらくは、アスカに対してどんなお願いをしようかと悩んでいるのだろう。 ネルフ本部に到着し、控え室でシンクロテストを待つ間も、紅潮した頬はそのままにシンジはずっと俯いている。 そんな彼の様子をずっと見つめ続けながら、様々な思いを巡らすアスカであった。 (シンジったら、どんな事をアタシに要求するつもりかしら? やっぱり、ほら――たとえばキスをして欲しいとか、さ。 ファーストキスの時は恥ずかしさを誤魔化すために、此見よがしにうがいしちゃったし。 はううっ、ホントにそんなコトを言ってきたらどうしよう? いや、待て待てっ。 曲がりなりにもキスは既に経験済みなんだし、もっとコアな要求をしてくるかも。 た、例えば、一緒にお風呂に入りたい――とかっ) 互いに一糸纏わずあられもない格好で湯船に浸かり、肌と肌を触れ合わせながら頬を赤く染め合う二人――という図を思わず想像してしまう。 狭い湯船の中である。 それはもう否応無く、互いの恥ずかしい部位は丸見えになってしまう事だろう。 (ううっ、その時は中が見えなくなるぐらい温泉の素をたっぷり濃い目に入れなくっちゃ。 で、でも、やっぱり恥ずかしいわよね) お風呂なの? ホントに混浴を要求するつもり?――と、シンジに向けて射抜くような視線を向けるものの反応がない。 正面に座っているアスカからの視線が感じ取れない程に、シンジは想像の世界に篭ってしまっているのだろう。 彼の表情の変化からその内容を推測しようと考えたアスカであったが、時折困ったような表情を覗かせたり、或いは宙を仰いでそのまま首を左右に振ったりとするだけで、流石に彼の思考を読み取る事は困難であった。 そうこうしている内にシンクロテストが始まり、互いにエントリープラグへと搭乗し、慣れたそのテストを受け始めたのであったが――。 「アスカ、もっとシンクロに集中しなさい。 こんな不安定な状態だとデータとして記録しても意味がないわ」 「わ、判ってるわよう。 ちゃんと集中してるってば」 確かにある事にはしっかりと集中していたアスカである。 (あうう、ホントにシンジってば、どんなコトを求めてくるのかしら?) 耳年増な彼女であるが、その手の知識は全てネットや本からの情報に頼ったものである。 組んず解れつ男女が抱き合うシーンを想像できても、その詳細を思い浮かべようとすると、その手のDVD同様に肝心な部位にはボカシが入ってしまう。 もう、ダメ。これ以上は想像できないっ――と、白旗を上げようとしたその時である。 リツコとマヤの会話が通信機を通してアスカの耳にも届いたのであった。 「ちょっと、マヤ。 今回のテスト用に用意していたプログラムをアップデートしてなかったの?」 (えっ? あっぷ、でーと? そ、そうよねっ。まずは健全にデートをしたいって言ってくるんじゃないかしら) 「ああっ、申し訳ありませんっ! 今、つき合わせてみたんですが、やはり更新できていませんでした!」 (つ、つき合う? そ、そうね――ひょっとしたら、更に踏み込んで彼女になってくれって言われたりしてっ!) その申し入れなら願ったり叶ったりである。 それはもう高飛車ツンデレモードで、嫌々を装いながらも、『約束なんだから仕方ないわ。ホントは嫌だけど、シンジの彼女になってあげるわ』――と告げて、更に『このアタシが彼女になってあげるんだから、未来永劫までちゃんとアタシひとりに尽くしなさいよね。浮気なんかしたら絶対に許さないんだから!』と念押しする事ができるだろう。 初デートはどこに行こう?――と既に気分は恋人モードである。 買い物に付き合わせた事は今までに数知れずあっても、正式にお付き合いを始めて迎える初回のデートなのだから、一生心に残るデートにしなくては――と思い描いていく。 そんな彼女の思考が妄想街道をひた走り――遊園地に行った帰りに雰囲気の良い公園に立ち寄って、愛し合う二人のシルエットがひとつに重なった頃――プログラムが更新されていなかったシンクロテストは延期となり、彼女のエントリープラグは排出され、現実に戻されてしまったアスカであった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ テスト終了後、早々にネルフを後にした二人であったが、自宅に戻るまでの間もシンジは俯いて黙したまま一言も喋ろうとはしなかった。 ずっと何かを考え込んでいる事は間違いないのであろうが、今朝と異なる点を見出すならば、どこか沈んだ雰囲気を感じさせている点である。 もっとも、ある意味ではシンジ以上に考え込んでしまっているアスカは、そんな彼の微妙な変化に気付く事は出来なかった。 さて――その帰路の途中で洋菓子店に予約しておいたケーキを受け取った後、アスカは晩ご飯の買い物に行こうとするシンジを引き留めた。 誕生日であるこの日ぐらい家事に労力を割かせたくないと考えた訳であり、既にミサトからは寿司の出前をとってもおつりが来る程に軍資金を貰っている。 本当は彼に自身の手料理を食べさせる事ができればベストなのであろうが、すっかりシンジの手料理に餌付けされ、三度の食事を心から楽しみにしてしまっている彼女としては、自らの料理のスキルを向上させる暇が無かったという訳である。 来年のシンジの誕生日までには、ヒカリに指導を仰いで、手料理を彼に食べて貰えるように努力しようと誓うアスカであった。 そんな帰路の経過を経て、自宅に戻ったシンジとアスカは二人っきりの誕生パーティーを開いた訳である。 その演出をしたのは勿論アスカであり、そんな彼女の思惑をシンジが少しでも察する事が出来れば、彼に対してアスカが憎からず思っている事を理解できた筈であろう。 更には今朝彼女から貰った例のカードの事も付け加えれば、憎からずどころか完全に好意の念を抱いていると確信できる筈である。 しかし、それはあくまでも一般論であり、こと碇シンジの思考回路に限定するならば、至って簡易なその方程式も答えを導く事は容易ではない。 憧れの対象であった彼女から誕生日を祝って貰えて嬉しくない筈はないだろう。 しかし、シンジの内心は、これがアスカから祝って貰える最初で最後の誕生日になるのだろう――と、彼女が聞いたなら激怒してしまうような思考を巡らせていたのであった。 一方のアスカは相変わらず、シンジがどんな要求をしてくるのか、その一点だけに思考が偏っていて、些細な会話の節々から妄想を飛躍させてしまう有様である。 例えば、「けっこう美味しいね、このお寿司」――と、出前の寿司を食した感想を洩らしたシンジの一言に過敏に反応してしまう。 (ケッコウっ? そ、そうねっ! ひょっとするとケッコンして欲しいって言われたりして! ああでも、日本の法律だとまだ結婚できない年齢だし、とりあえずは婚約ってコトよねっ!) ――と逞しい連想を浮かべてみたり。 更には「このエビも美味しいね。うん」――と、シンジが呟けば、臨界点を突破しそうな程に頬を紅潮させて身を捩じらせる。 (えびっ?! えーびーってコトは、AからBまでっ!? ああん、そこまでイッたらCまでもっ? ダメよっ、いくら相思相愛の仲でも、そこから先は結婚してから――) ――と、既に死語と化したABCの俗語まで連想してしまったようだ。 おまえはいったい、いつの時代の女子中学生なのかッ?――というツッコミはさておいて。 出前の寿司やらケーキやら、いつもと異なる夕餉の雰囲気を堪能し、シンジの誕生パーティーは恙無く終わった。 その間、結局シンジからは例の“何でもシテあげる券”を行使する様子はなく、ある意味ではずっと悶々とした時間を過ごしてしまったアスカである。 「ありがとう、アスカ。 誕生日を祝って貰ったなんて物心がついてからは初めてだったし、本当に嬉しかったよ。 ほんと、良い思い出ができたし、僕、この日の事は一生忘れないと思う」 感謝の念を述べたシンジであったが、その彼の物言いには、アスカにとってどこか引っ掛かる部分があった。 微妙な言い回しであり、どこに違和感を覚えたのか首を傾げていると、そんな彼女を他所にシンジは、自室へ戻るつもりなのか腰を上げてしまう。 「ちょっと待ちなさいよ、シンジ。 いったいドコに行くつもり?」 「え――? どこって、そろそろ部屋に戻って宿題を済ませようかと思っているんだけど」 生真面目なシンジである。 丸一日学校を休んだ事により、その分を埋め合わせる為に、担当教科のそれぞれの教諭から、メールによって宿題が届いている筈であろう。 欠席の事情が特務機関によるオフィシャルなものである事から、宿題の提出は義務付けられていないが、今までにもシンジは寝る間を惜しんででも、宿題など提出対象のものは手掛けるようにしていた。 たとえ自身の誕生日であっても、手を抜くつもりはないのであろう。 彼のその姿勢を普段はアスカも好意的に見ていたのであるが、今回に限って言えば看過できる筈もなかった。 「宿題も大事だけど、その前にシンジはもっと大事なコトがあるでしょ! シンジの誕生日は今日なんだから、今朝渡したアレも、ちゃんと今日の内に答えてくれないと困るわ」 今日一日でさえ、シンジがどんな事を求めてくるのか悩み続けて、他の事が全く手につかなかったアスカである。 このまま翌日まで持ち越されては、その事が気になって、夜も眠れなくなってしまう事だろう。 そもそも、この“何でもシテあげる券”をシンジに利用して貰い、それをきっかけにして親密な関係にステップアップしようという腹積りなのである。 戦果もなしにこの日を終える訳にはいかないという強い思いがアスカにはあった。 「さあ、どうなの? せっかく気を利かせて、たっぷりと考える時間が取れるように朝一番で渡したのよ。 アタシにどんな事をして貰いたいのか、もう充分に検討する時間はあった筈よね」 急かすようにそう告げるアスカの様子に、このまま何も答えずに一日を終える訳にはいかないと悟ったのだろう。 シンジは俯き気味であった視線を上げて彼女と目を合わせると、恐る恐ると言った様子で話し始めた。 「えっと……この“何でもシテあげる券”の事だけどさ――実際にアスカにそのお願いをするのは、中学を卒業する来年の3月まで待って貰えないかな」 そう言い終えた彼の面持ちは実に神妙なものであり、青少年ならではの性的な興味本位で要求を考えていた様子ではない事は明らかであった。 そしてそのように面と向かって答えられると、そもそも有効期限を明示していなかった以上、あからさまに拒否の姿勢を取る事もできない。 「シンジがそうしたいなら来年の3月まで待ってあげてもいいけどさ。 でも、なんでそうしたいのか理由ぐらいは教えてくれるわよね?」 先程の“この日の事は一生忘れない”云々の彼の物言いも気になっていた点であった。 おそらくは、来年の3月まで待って欲しいというその理由に大きく関わっているのだろうと察したアスカは、声を荒げる事もなく、静かに彼の返事を待った。 「正直に言うとね――このカードを受け取ったその時は別として、その後はずっと、どうしてアスカはこんな特別なものを僕にくれたのか、その理由を考えていたんだ。 幾つかの可能性を考えて――その中でもありえない可能性、例えばアスカが僕に対して好意を持っているとか――あっ、怒らないでね、あくまでも可能性のひとつとして考えただけだから。 そう――そんなありえない可能性を除外して、考えられる理由を色々と思い浮かべてみたんだ。 それでね――きっと、アスカは僕が悩んでいた事を察してくれていて、背中を後押しするように元気付ける為に、こんなカードを作って僕にプレゼントしてくれたのだろう――って、結論付けたんだ。 僕――ミサトさんには何度か相談していたから、アスカはミサトさんから聞いて知っていたんでしょ? 僕が来年の春にはここを出て、全寮制の高校に進学しようと思っている事をさ。 いつまでもミサトさんやアスカに頼ってこの心地良い生活を続けていても、いつかは独り立ちしなきゃいけない時が来る訳だし、それなら高校に進学する来年がいい契機だと思ったんだ。 僕は今まで辛い事や苦しい事から逃げてばかりいたから――今度こそは自分を見つめ直して、精神的に強くなりたいんだ。 それでね、来年の春――ここを出て全寮制の所へ引っ越す時に、このカードを使って、アスカから“頑張りなさい”って励まして貰おうと思ったワケで――」 「――ちょっと、待ちなさいよ」 その衝撃的なシンジの発言を、アスカは最後まで冷静に聞いていられる事は出来なかった。 これ以上、聞きたくないという思いを込めて彼の言葉を遮ると、二の句を継げるよりも早く彼女の身体は動いていた。 その俊敏な動きはまさに草食獣を捕獲する肉食獣のようであった。 そう――僅かにシンジが彼女の動きを察知してたじろいだその瞬間、アスカはシンジを押し倒して仰向けにすると、彼の腹部の辺りに腰を下ろし、所謂マウントポジションの体勢を取ると、両手で彼の両手首を押さえつけたまま――吠えた。 「アタシがシンジに対して好意を持つ事がありえない? ここを出て全寮制の高校に進学する? あげくには、アタシが一生懸命に考えてアンタにあげたプレゼントをっ――何でもしてあげるって言っているのに、そんなコトに使おうと思ったわけ? 冗談じゃないわっ! ふざけるのもいい加減にしなさいよっ! アンタがアタシを捨ててここを出て行くなんて絶対に許さないんだからっ! シンジは一生、アタシの傍に居なくちゃだめなのっ! 1日たりとも別の屋根の下で暮らすなんてありえないんだから!」 「あの――アスカ?」 「うるさいっ! このおたんこなすっ! すけこましのっ、うわきものっ!」 「ちょっと、その――落ち着いて僕の話を――」 「うるさい、ウルサイ、うるさいーっ! ここを出ていくなんてっ!――アタシを捨てて出ていくなんて言うこの口は塞いでやるっ!」 まさに電光石火の早業であった。 自らの唇でシンジの唇を塞いだアスカであったのだが――それはキスと呼ぶには乱暴極まりない勢いであり、甘美な雰囲気も無ければ、情欲の類も感じられない。 あまりの勢いの為にシンジの唇にぶつけるように重ねた自らの唇に痛みを感じたものの、アスカは構うものかと主張するように、互いの唇の形が変わってしまうのではないかと思える程に押し付けるように唇を重ね続けた。 決して離さないという強い意思を感じさせるように、長く長く、彼の唇を奪い続けるアスカ。 そして――どれほどの間、唇を重ね続けた事だろうか。 最初の内は驚きのあまり身体を強張らせていたシンジも、いつしかぐったりと力が抜けて、彼女にされるがままの状態になっていた。 名残惜しさもあったのか、一旦離した唇を再度僅かに矛先をずらして彼の口もとに触れさせた後、ようやくシンジの唇を解放したアスカは、身体を起こして再び彼の腹部に腰を下ろし、眼下で力なく仰向けの姿勢で押し倒されたままの格好のシンジを射抜くように睨みつけると、ぽろぽろと大粒の涙を溢しながら口を開いた。 「ねえ、シンジはアタシの事が嫌いなの? お互いに好き合っていると思っていたのはアタシの一方的な独り善がりだったの?」 「そんな事はないよ……僕がアスカを嫌う事なんて絶対にない。 でも、それは好きと言う気持ちじゃなくて、憧れの対象なのだと思うようにしていたんだ。 だって、アスカはいつだって加持さんの事ばかり口にしていたし――何も取得の無い僕なんかじゃ相手にすらされる筈が無いと諦めていたし。 だから、次に女の子を好きになる時には自分に自信が持てるようにありたいっていう気持ちもあって、精神的に強くなる為にここを出て学校の寮に入ろうと思ったんだ」 「加持さんの名前を出していたのは謝るわよぅ。 でも、シンジに嫉妬して貰いたいっていう乙女心ぐらい気付いてくれたっていいでしょ? それにっ!――自分に自信が持てるように強くなりたいっていう心構えはいいとしても、何でアタシじゃない別のオンナを好きになろうと思ったりするのよ!」 恋に正しい方程式など無ければ、万能の特効薬もありはしない。 彼女の痛切なまでの一言々々が胸を打ち、自身の頬へと滴り落ちてくる彼女の涙の雫を肌に感じながら、いつもの条件反射的な言葉ではない――大切な女性を泣かせてしまった事に心から申し訳なさを感じて、シンジは口を開いた。 「アスカ――本当にごめんね。 僕はどうしてこんなに馬鹿なんだろう――。 大好きな人を簡単に諦めて、自分が傷つかないように憧れの存在だってすり替えてしまうなんて――さ」 「判ってるわよぅ、アンタがバカだってことぐらい。 だから、アタシが傍に居てあげないといけないでしょ。 バカシンジのくせに、勝手にひとりで遠くに行ったりしたら承知しないんだからっ」 すれ違っていた想いが重なっていくその雰囲気を実感できたのであろう。 流れる涙はなかなか止まらないものの、彼女の表情には穏やかさが戻りつつある。 しかし、その落ち着きを取り戻し始めた為に、自身が取ってしまった言動が明確に脳裏に蘇っていく。 そう――シンジを押し倒し、マウントポジションを取った後、客観的には愛の告白のような言葉を並べつつ、彼の唇を強引に奪った事を。 こんな時に明晰なその頭脳は足枷になってしまう。 自分が口にしてしまった一言一句を全て思い出し、ぶつぶつと反芻した後――アスカは、これ以上ない程に頬だけでなく耳たぶまで真っ赤に染め上げると、視線を大きくシンジから逸らした。 「こんなに恥ずかしい思いをさせてっ! アタシ、絶対に許さないんだからっ! 絶対に、絶対にシンジを許してあげないんだからっ!」 言い出したら頑固に主張を変えない性格の彼女である。 その事を誰よりも良く知っているだけに、シンジは困った顔を覗かせながら、取り付く島がない様相を露にしているアスカに声を掛けた。 「そんな――どうしたら許してくれるの? 僕に出来る事だったら、なんだってするからさ」 雉も鳴かずば撃たれまい。 或いは注意一秒怪我一生という八文字熟語の方が、今の彼に必要な教訓であったのかもしれない。 「言ったわね、シンジ――勿論、男に二言はないわよね?」 「う、うん――」 泣いたカラスがもう笑った――と言うべきか。 まだ僅かに残っていた目もとの涙の雫を手で拭い取ると、アスカは不敵な表情を浮かべた。 ――以前、シンジはこんな風な彼女の表情を間近で見た事があった。 或いは、アスカのその表情を見た時からずっと彼女に惹かれていたのかもしれない。 そう――それは、分裂型の使徒と対する為に、ユニゾン特訓をしていた頃。 悔しい思いをして部屋から飛び出したアスカの後を追いかけて――その時、夕日を背にして彼女はシンジの前でこう言ったのだ。 “傷つけられたプライドは――” 「――10倍にして返してやるのよっ!!」 シンジの記憶の中の、あの時の彼女のセリフがデジャビュのように彼の脳裏に蘇る。 そう――あの時と全く同じ言葉を口にしたアスカであったのだった。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「それで――碇くんにどんな10倍返しをしちゃったの?」 時は流れて10年後のとある昼下がり。 既に姓を鈴原に変えた親友のヒカリを家に招いたアスカは、留守にしている愛する夫の懐かしい昔話をお茶請け代わりにするように話してみせていた。 要するに惚気話である。 一方的に惚気られては聞く方は堪らないが、この仲の良い二人の場合は、半ば自分の夫を自慢し合うように惚気合戦を繰り返しているのだから問題はないのだろう。 「え――? なに、そんなに聞きたいの? ヒカリ」 溢れんばかりの――そう、実際にどんな溢れてもすぐに満ち足りてしまう幸せに包まれた笑顔を浮かべるアスカ。 その当時を懐かしむように遠い視線を覗かせながら――そして、その時のやりとりを思い出したのか、思わず笑い出してしまいながら口を開いた。 「10倍返しというコトでね――単純に掛け算をさせちゃったの。 アタシの誕生日に“何でもシテあげる券”を10枚、作って渡しなさいって。 うふふ、それはもう思いつく限りの恥ずかしいコトをシンジにさせたわよ。 例えば、朝・昼・晩と食事の後には口直しというコトで、毎回シンジからキスをさせたり、毎晩アタシが寝るまで添い寝させて、毎朝アタシが起きる前に優しく抱き締めるようにして貰ったり――とか。 そうそう、毎日“愛してるよ、アスカ”って30回以上言わせたりもしているのよ」 「そ、それはちょっと凄いわね――って、“〜している”というコトは、今も毎日30回以上、愛してるって言わせているの?」 そのヒカリの驚きように、今日の惚気合戦の勝利を確信したのだろう。 勝ち誇ったように言葉を返すアスカであった。 「それは勿論よ――だって約束させた九つの事は全部生涯に渡って有効なんだから。 もっとも、シンジが仕事でネルフに行っている昼間は食後のキスができないし、毎晩たっぷりと愛し合っているから必然的に一緒のベッドで寝るワケで、添い寝の約束は今ではあまり意味がないものになってしまったのよねー」 「はいはい、ご馳走様。 アスカ――今日は完敗よ、参ったわ」 明日は負けないわよ――と妙な闘志を燃やすヒカリであったが、ふと、踏まなくてもいい“地雷”に気付いてしまったのだろう。 小首を傾げながら言葉を繋いだ。 「そう言えば、碇くんに準備させた“何でもシテあげる券”は10枚なのに、願い事が9件という事は、そのカードはあともう1枚残っているのね?」 すると、よくぞ聞いてくれました!――と言わんばかりの緩みきった笑顔を振り撒きながら、アスカは答えた。 「あと1枚はね――生涯掛けてアタシと子供達を幸せにするようにって誓わせるつもりだったの。 でも、もう今更このカードで命令しなくたって、充分に幸せにして貰っているから♪ ――だから、最後の1枚は記念に残しておこうと思ったわけよ」 「あうっ、もう聞くんじゃなかったわ。 幾らでも幸せになっちゃいなさい――ええ、放っておいても勝手に幸せになっちゃうんだろうけどっ」 完全に白旗状態という意を示すように両手をあげるヒカリであった。 しかし――彼女は知らない。 先程、アスカが口にした最後の“何でもシテあげる券”の本当の使い道を。 10年前の6月6日にアスカから貰った同じ目的のそのカードもシンジは未使用のまま大事に残している。 互いに残しているそのカードは、互いに相手の使い道を聞かされていない。 しかし、きっと二人ともこのように使うつもりでいるのだろう。 年老いて――余命幾ばくもない時になって。 相手が自分よりも先に天に召されようとした時に――“お願いだから私を置いて先に逝ったりしないで”――と。 これは、後に――夫婦揃っての世界長寿記録を更新し、ギネスブックにその名を刻む事となる2人の若かりし頃のエピソードであったという。 結局は最期まで未使用のまま残された2枚のカードは、揃って同じ日に天命を全うして穏やかにこの地から旅立った2人が納められた大きな棺の中に一緒に入れられたという事である。
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