『溶けてしまいそうなアタシを』

(サイト開設4周年記念)

by イイペーコー



 壮絶だった戦いも終えて、今ではあの頃の事が夢か幻だったのではないかと思う程に穏やかで平凡な日常に埋没してしまっている為だろうか。
 きっとそうだろう。

 最近のアタシは、毎朝、目が覚める度にとある少年の事を思い浮かべてしまって、暫くの間はベッドから身を起こす事ができないでいたりする。

 ある時はアイツの笑顔。時々、胸が高まってしまうぐらいの優しそうな笑顔――まあ、実際に優しいんだけど。
 そしてある時はアイツのちょっと落ち込んでいる時の顔。
 ああ、アタシにも母性本能があったんだなぁ――としみじみ実感してしまうと言うべきか。
 アイツのそんな様子を目の当たりにしたならば、絶対に放っておけないアタシだったりする――もっとも最近はめったにアイツはそんな顔を見せなくなってしまったけれど。
 そしてある時はアイツの怒った顔。
 今でも、時々アイツとは喧嘩をしてしまう事があって。
 その大半はアタシが無理難題をアイツに押しつけようとして、それはもう実に強固なアイツの堪忍袋も我慢に我慢を重ねた末に切れてしまう事があったりする訳で。
 まあ、喧嘩をしても、すぐに仲直りが出来ているので問題はないのだ。

 そんな様々なアイツの顔を思い浮かべて、挙動不審気味にベッドの上を転がったり、不安な気持ちに苛まれて、頭から布団を被ってしまったり――。

 そして、結局は遅刻ギリギリの時間になって慌てて支度するというのが最近の日課になってしまっている始末。

 断っておくが、これは決してアイだのコイだのいう類のものではない。
 未だに慣れないもので日本語は実に難しく、どう表現すべきなのか迷う所なのだけれど、最も適当な言葉を選ぶとしたならば、やはり“義務感”という所なのだと思う。

 頼りない弟の面倒を看なければならない姉のような心境に近いのだ。

 そう――アタシこと、惣流・アスカ・ラングレーは、慈悲深いその優しい気持ちから、アイツこと、碇シンジを見守ってあげているという構図なのだ。
 無茶なことを言ってシンジを困らせたりしているのも、それはアイツを鍛えてあげようという長期的な展望に立った深慮であって、断じて構って欲しいからなどではない。

 従って、無論言うまでもないが、シンジとアタシは所謂彼氏彼女の関係ではない。
 もうあれから2年が過ぎて、お互いに高校生になったと言うのに、全くの進展なし。
 アイツの方から告白とかナントカ、何らかのアクションがあれば、検討してあげても良い余地は残されているのかもしれないが、シンジに限ってそんな事などある筈もなく、微塵も進展なし。

 それどころか、ミサト(と加持さん)の結婚と自分達の高校進学を機に、アタシとシンジはそれぞれ独り暮らしをする事になった訳で、かつての肩書だった同僚兼同居人兼クラスメートというその看板から“同居人”の文字が消え、更に高校入学後はクラスまで別々になってしまい、“クラスメート”という肩書まで消えてしまったのだ。
 これでは進展どころか後退と言ってもいいだろう。

 当然のことながら、シンジと顔を合わせる機会は、同居していた頃に比べると激減してしまっている。

 これは姉貴分として、その義務感を果たすためには、いささか芳しくない状況なのかもしれない。

 朝は相変わらずシンジは早いから、登校中はほとんど顔を合わせる機会はなくて。
 それでも、アイツは今でも律儀にアタシの分のお弁当を作ってくれていたりするものだから、昼休みには必ず顔を合わせる事ができる。
 せめて、その時に「たまには一緒に食べようか」と声を掛けてあげればいいのに、素直になれないアタシは、いつも素っ気ない態度を取ってしまうのだ。
 ああ、自己嫌悪。
 そう、あくまでも姉貴分として、一緒にお昼を食べながら、日頃困っている事はないのかどうか、色々と悩み事を聞いてあげるべきなのに。

 そして高校に入ってからは部活動を始めてしまったシンジは帰りが遅い。
 てっきり文化系の部活動なのだろうと思っていたら、驚くことに柔道部に入ってしまったらしい。

 ついていけずに長続きしないだろうと見ていたのだけれど、これがどうしてきつい練習にも涼しい顔を浮かべるほどにすっかり馴染んでしまっているとの事。
 冷静に考えれば当然のことなのかもしれない。
 アイツだってサードチルドレンとして、ネルフでの厳しい戦闘訓練に耐えてきたのだから、高校の部活動レベルの練習なら楽々とこなせる程に、自然と体力がついてきていたのだろう。

 まだ1年生だと言うのに、補欠ながらも選手に選ばれたらしく、最近は一層に部活動に励んでいるアイツだった。

 ――で、そうなると帰りもすっかりと顔を合わせる機会が減ってしまい、下手をするとお昼の機会を除けば、全く顔を合わせないで一日を終えてしまう事もあったりする。

 不満、不満、そう、思いっきり不満。
 アイツはアタシと顔を合わせなくても平気なのだろうか。
 アタシと会話をしなくても、心置きなく一日を終えて安眠することが出来ているのだろうか。

 アタシって、シンジにとって、そんなちっぽけな存在なのだろうか――と気に悩む事も最近では珍しくなくなってきていた。

 今でも健気にお昼のお弁当を作ってきてくれているのは、元同居人に対する義務感から?
 そこに異性に対する秘めた恋心は存在しないのか?
 いや、別にアタシの方はそんな思惑なんてこれっぽっちもないのだけれど。
 身近にこんなとびっきりの美少女が居るのだ。
 普通なら恋人にしたい最有力候補として位置付けて、色々とアプローチをしてくる所なのではないのだろうか。

 答えに辿り着けないそんな思いを巡らせて、なかなか夜も寝付けず睡眠不足になったりしてしまう最近のアタシだった。
 ええい、それも全て、シンジが悪い。
 睡眠不足は美容の大敵。
 アタシの美貌が1パーセントでも失われるような事になったら、どうしてくれようか。
 勿論、その時にはシンジにきちんと責任を取らせないといけないだろう。








 そんな憂鬱な気分が続いていたとある平日のこと。
 授業の合間の短い休み時間。
 アタシはなんとなくアイツの顔が見たくなって、シンジの教室へと足を運んだのだ。

 勿論、教室の入口からそっと中を窺うだけ。
 クラスの違うアタシにとって、その扉はATフィールドみたいなもの。
 簡単に足を踏み入れることなどできはしない。

 おそるおそる、そしてちょっぴり胸を高鳴らせつつ、アタシは教室の入口から中を窺った。
 もしも、そこで教室を出ようとしていたシンジとばったり出会ってしまったらどうしようかと思いつつ、更にはちょっとだけ期待しつつ。

 けれど、そんな偶然の機会に恵まれることはなく。
 それどころか、アタシは見たくなかったその光景を目の当たりにしてしまった。


 自分の席に座っているシンジの周囲を取り囲むように集まっているアイツのクラスメート達。
 その中には女の子も混ざっていて、実に仲良さそうに談笑していたのだ。

 どんな会話なのか遠すぎて判らない。
 けれど、その話の中心にシンジが居ることは容易に想像できた。
 周囲のクラスメート達に色々と話しかけられて、ちょっと困ったような顔を見せつつも、透き通るようなその笑顔をシンジは覗かせていたのだから。

 アタシがいなくても、アイツはこんな風に笑顔を見せることが出来るのか――と。
 その事実を見せつけられて、アタシは落胆の色を隠せなかった。

 それだけではない。
 馴れ馴れしく、アタシのっ、アタシのシンジの手を握るオンナがいたのだっ。
 いや、ちょっと訂正っ。
 あんまり興奮してはいけない。
 そう、冷静に分析するとこう表現すべきだろう。
 ――アタシの弟分のシンジの手を握る少女がいたのだ。

 その媚を売るような表情からして、『碇くんって、とてもキレイな手をしているのね』とかなんとか、そんなコトをほざいているに違いない。

 だいたい、シンジもシンジだ。
 アンタはそこらの十把一絡げのオンナに手を握られて、嬉しそうに笑顔を振りまいているようなキャラじゃないだろう。

 教育を間違ったかしら――と、思いつつ。
 何かこう鉛を飲み込んだような重苦しい気分を感じつつ、アタシは自分の教室へと戻って行ったのだった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 それから数日が過ぎた頃のこと。
 5月も下旬を迎え、アタシはどこか心が落ち着かず、あれこれと思いを巡らせていた。
 5月が終わり、6月になればすぐにアイツの誕生日がやってくる。
 最近は疎遠になりつつあるアタシ達だったけれど、そこはそれ。
 そう、姉貴分として、弟分の誕生日をきちんと祝ってあげなくてはならない。

 プレゼントはどんなものがいいのか、それはもうかなり前から検討に検討を重ねてきた。
 弟分の誕生日にそこまで熱心にならなくても――と言われるかもしれないが、まあ、アレだ。
 将来、彼氏が出来たときに備える予行演習になるのだから、無駄なことではあるまい。

 さて――誕生日当日はどうするか。
 どこかで外食するという手もあるが、たまにはアタシの料理の腕を揮ってあげるという選択もアリだろう。
 日頃、お弁当を作って貰っているのだから、そのお礼も兼ねて。
 付け加えると、ひょっとしたらシンジってば、アタシは料理が出来ないものと勘違いしている可能性もあるわけだし。
 その誤解を解く良い機会になるだろう。

 ――そのために、先月からずっと毎週末にヒカリの家に出向いて料理の指導を受けてきたのだから。

 アイツの誕生日が迫ってきたら、きちんと部屋も掃除しておいて、普段から規則正しい生活を送っていることを知らしめてやろう。
 まあ、実際のところは俗にいう企業秘密という所で、おおっぴらに言える状態ではないのだが。

 ――それはともかくアイツの誕生日当日は、昼間は遊園地とかに出かけて、その後はそのままシンジをアタシの部屋に招くことにするつもりなのだ。

 まあ、当日まで黙っていて驚かせるという手も捨て難いが、ここはやはり前もってアポイントを取っておくことにした。

 幸いに6月6日は土曜日で学校は休みだけれど、ひょっとすると部活動の予定が入っているかもしれないし。
 きちんと事前に伝えておいて、他の予定を入れないようにクギをさしておかなくては。

 そして夜は二人っきりで食事して。
 遅くなったら、ひとりで帰すのも心配だし――えっと、その。
 ま、まあ、一晩ぐらいなら、泊めてあげても問題ないわよね。
 問題もナニも、アイツが問題になるようなコトをしてくる筈はないのだから。

 そんな訳で、その日の放課後、アタシはシンジにそのコトを伝えるべく、屋上に向かっていた。

 普段ならば放課後すぐに部活動に向かうアイツも、今は中間試験を目前にしているから、部活動自体が休みに入っている筈。

 ならばどうして屋上に居るのか理由は判らなかったけれど、そこはソレ、シンジが持っている携帯電話に内蔵されているGPS機能を使って探知すれば、かなりピンポイントに居場所の特定はできるのだ。

 え? それは違法行為ではないのか――って?

 何を言っているの。
 役目を終えたとはいえ、シンジはネルフにとって大切な適格者のひとり。
 昔と違って護衛は付いていないらしいのだけれど、GPSによって、その居場所は24時間体制でネルフに監視されているのだ。

 まあ、ちょっとばかりマヤに無理を言って、そのデータをリアルタイムでアタシのケータイに転送して貰っているのだけれど、手薄になったネルフのスタッフに代わって、アタシがシンジを護衛しているようなものなのだし、法的にもきっと問題はないに違いないのだ。


 閑話休題。


 兎にも角にも、アイツを早いところ見つけ出して、6月6日の約束を取り付けなくては。

 屋上に辿り着いたアタシは、ぐるりと周囲を見渡した。
 放課後とはいえ、日頃なら何人かは残っていて屋上で話し込んでいる生徒が居る筈なのだけれど、試験前という事もあって、人影はまったくない。

 それでもひとりは――そう、シンジはここに居る筈だと、更に周囲を窺っていると、屋上のフロアの更に上に設置されている給水塔の方から話し声が聞こえてきたのだ。


「呼び出してごめんね、碇くん」


「ううん、別に構わないよ。
 今は試験前で部活も休みだし。
 それで、僕に話って何かな?」


 アタシは思わず愕然としてしまって、身体が硬直してしまった。
 こ、これは――?!
 そ、そう、このシチュエーションは間違いなく告白に違いないっ。

 しかもその会話の内容からして、シンジと会話しているその相手のオンナが、アイツをここに呼び出してきたという状況のようだ。

 ま、まずいっ!

 まさかシンジに限って、女の子から告られるような展開になることなんてありえないと思っていたのにっ。

 そう――表面的なものではなく、本質的な部分でのシンジの良さを理解できる女なんて、アタシ以外にいる筈はないと高を括っていたのだ。

 あたふたと慌てふためいているアタシを余所に、そのオンナの告白は続いてしまう。


「あのね――碇くんは気が付いてなかったと思うけど、私、高校に入学してから、ずっと碇くんのことを見ていたんだよ」


 や、やっぱり、告る気ね。
 しかも、ずっと見ていたですって?
 はん、せいぜい2ヵ月程度のクセに何を言っているんだか。
 こちとら丸2年もの間、シンジのことを見守ってきたんだからね。

 その程度で、アタシのシンジ――もとい、アタシの弟分のシンジの彼女のポジションに収まろうなんて百年早いわよ。


 そう考え、その告白の現場に踏み込んで邪魔をしてやろうかと考えたところで、ふとアタシは我に返った。

 何をアタシはこんなに慌てているのだろう?
 弟分のシンジに彼女が出来るかもしれないのだ。
 冷静に考えれば喜んで歓迎すべきことではないか。
 彼女が出来れば、きっと精神的にも成長するだろうし、姉貴分のアタシとしては肩の荷が下りる展開にもなるだろう。
 そうなったら、アタシだって彼氏を作ってもいいし。

 その時だった。
 アタシの頬を何か滴が流れ落ちていた。
 それが涙なのだと気がつくまで、どれぐらいの時間を要したのだろう。

 脳裏に思い浮かべてしまったのだ。
 シンジが誰か他の女の子と一緒に並んで歩き、笑顔を浮かべている光景を。
 腕を組んで仲睦まじくデートして、その帰りに夕日の映える公園で、その少女とキスをしようとしているシンジの光景を思い浮かべた途端、アタシは自然と泣きだしてしまっていたのだ。

 ああ、アタシってば、ひょっとして――シンジのことが。


 その先の結論を考えようとしたアタシだったのだけれど。
 それは完全な手遅れだった。


「私、碇くんのことが好きなの。
 だから、その――良かったら、私を碇くんの彼女にしてくれないかなって思って」


 それは実にストレートな告白だった。
 きっとアタシには百年掛かっても言えないセリフだと思う。

 シンジは他人からの愛情に飢えている一面がある。
 だからきっと、真っ直ぐに“好きだ”って言われたことはとても嬉しい筈。
 そしてシンジは他人から嫌われてしまうことを恐れている部分がある。
 その告白を断れば、一転して嫌悪されてしまうかもしれないという気持ちが湧いてきて不安に駆られてしまう筈。

 だからシンジはその告白を受け入れてしまうだろう。
 それはアイツのことを知り尽くしているアタシだからこそ容易に想像できた結末だった。

 そこまで考えた途端、アタシは逃げるようにその場から走り出していた。
 シンジが告白を受け入れるその場に立ち会いたくなくて。
 どこをどう走ってきたのか分からない。
 気がつくと、アタシは自分の教室へと戻ってきていた。

 幸いに既にみんな下校してしまったのか、辺りには誰も居なくて。
 アタシはただじっと自分の席に座ってうな垂れてしまったのだった。

 もう今頃は、シンジはあの子と恋人同士になった頃だろう。
 押しの強そうな女の子だったから、その場でシンジは唇まで奪われているかも……。
 そしてきっと来週の誕生日、シンジはあの子と二人っきりで過ごすことになるに違いない。

 もしも時を戻すことが出来るのなら、アタシはどんな対価だって払うだろう。
 けれど、それはもう叶わぬ願い。
 どんなに後悔しても、動き出した歯車はもう止まらない。

 そう――ついこの間まで。
 いいえ、きっとついさっきまで、手を伸ばせばすぐに届く所にいたアイツは、もう二度と手の届かない所へ行ってしまったのだ。

 なんてアタシは馬鹿なのだろう。
 姉貴分だの弟分だの、妙に拘ってしまって、大事なことに気がつかなかった。
 いや、あえて気がついていないフリをしていたのかもしれない。

 アタシとシンジはよく似ているのだ。
 シンジもそうであるように、アタシも愛情に飢えている。
 飢えているからこそ、怖かったのだ。
 手を伸ばして捕まえようとして、もしも拒否されてしまったら、もう取り返しがつかなくなるから。

 だから言えなかった。
 好きだなんて、絶対に言えなかった。
 言ってしまったら、きっとアタシは溶けてしまうから。
 そしてアイツと目も合わせられなくなってしまうから。

 だから、アタシは逃げてしまっていたのだ。
 自分が傷つかないように“姉貴分”という安全地帯を見出して、ぬるま湯に浸るようにして。

 結局、最後までその一歩を踏み出せなかったのだ。








 それから、どれぐらいの時間が経ったことだろう。
 気がつくと、教室の窓から見える空は鉛色に染まっていた。
 それはまるでアタシの心を鏡のように映しているかのようにさえ思えた。


「天気予報のウソつき。
 今日は晴れだって言ってたクセに」


 そう――空は遂に泣き出していた。
 しかも、土砂降りの雨。

 いつまでも教室で落ち込んでいても仕方がない。
 傘は持ってきていないけれど、今なら雨に打たれて帰るのも悪くないだろう。

 アタシはカバンを手にすると、重い足取りで昇降口へと向かった。
 そして靴箱の所まで辿り着いた時の事だった。
 ある意味、今、一番会いたくない奴がそこに居たのだ。


「あれ? アスカも今帰る所なの?」


 何事もなかったかのようにすっきりとした表情を浮かべて、そう話し掛けてきたのはアイツ――碇シンジだった。
 どこか嬉しそうに見えるその理由は、さっきの女の子と恋仲になったからだろうか。


「見れば判るでしょ。
 アンタと違って予定のないアタシは真っ直ぐに帰るだけよ」


 自然に振る舞おうと思っているのに、言葉に棘が見え隠れしてしまう。
 ああもうこの際、シンジのことなんて放っておいて、土砂降りの中、走り出してしまおうかと思ったその時だった。


「僕だって今日は予定ないよ、部活は休みだし。
 そんな事より、アスカは傘を持って来ているの?
 天気予報は晴れだって言っていたからさ」


 そう言って、シンジはごそごそと手にしていたカバンを開けると、その中から折りたたみ式の傘を取り出した。


「持って来ていないのなら、この傘を使っていいよ。
 男物で悪いんだけどさ」


 なんて用意がいいのやら。
 降水確率が0%でも、コイツは常にカバンに傘を入れているのだろう。
 几帳面な性格のシンジらしいと言えばそれまでなのだけれど。


「なによ、アタシに傘を貸したりしたら、アンタはどうやって帰るつもりなのよ」


「いや、ほら、部活は休みなんだけれど、身体が鈍っちゃいけないから、今日は走って帰ろうかな――って、思っていた所なんだ。
 だから気にしないで使ってよ」


 なんて見え透いた嘘をつくのだろう。
 それもこんなに優しい嘘を。


「馬鹿なコトを言ってんじゃないの。
 この土砂降りの中、走って帰ったりしたら風邪を引いちゃうわよ。
 ほんとにもう、何年経ってもバカシンジのままなんだから」


 そう言って返してやったのだが、するとシンジのヤツは、なにか琴線の触れることがあったのか、なんとも嬉しそうな笑顔を浮かべたのだった。


「ナニよ、なんでそんなに笑ってんのよ。
 アタシ、何か変なコトでも言った?」


「え? ああ、その、違うよ。
 そういうのじゃなくって――とても懐かしく感じちゃってさ。
 だってほら、アスカから“バカシンジ”って言われたのって、随分と久しぶりだったから、それが嬉しくって」


「あ、アンタバカじゃないの?
 バカって言われて嬉しいだなんて、どうかしてるわよ、ほんと」


 どうかしているのはアタシも同じだった。
 そんな何気ない会話をシンジと交わすこと自体が久し振りで。
 アタシはこみ上げてくる心地良い気持ちを抑えるのに懸命だったのだ。


「それはともかくさ、この傘、使ってよ。
 これでも最近は身体を鍛えているんだ。
 これぐらいの雨に打たれたって大丈夫だからさ」


「ダーメ。ちょっとばかり最近は逞しくなってきたみたいだけど、万が一、風邪でも引かれたら、一生言われ続けるハメになりそうだし。
 あの時、アスカに傘を貸したばかりに僕は酷い風邪をこじらせたんだ――とかさ」


「そんなこと絶対に言わないよ。
 それに傘は1本しかないんだし、仕方ないと思うんだけど」


 どうして、どちらか一方が傘を使うという選択肢しか思い浮かばないのだろうか。
 その言葉をアタシに言わせようとしているのかと思ったけれど、よく考えれば、コイツはそんな策士めいたことのできるヤツじゃなかった。
 つまりはアタシの方から、その選択肢を提案しないと、延々とこの押し問答を続ける事になってしまう訳なのだ。


「そんなのいくらでも方法はあるでしょ。
 ほら、アンタが傘を差して、アタシを送って行けばいいのよ。
 そうすれば、二人とも濡れずに済むし、賢明な選択だわ」


 相合傘――さすがにその単語だけは口にできなかった。
 ちょっと恥ずかしいというか、何と言うか。

 しかし、その構図を想像した途端、アタシは身体中が火照ってしまう錯覚を感じてしまっていた。
 いや、錯覚ではなくて、実際に頬が赤く染まっているのかもしれない。


「えっ? それって、僕とアスカが相合傘をして帰るってこと?」


「そ、そうよッ! もう、そんな恥ずかしいコトをいちいち言わないのっ!
 ほら、さっさと傘を広げなさいよ、早く帰るわよ」


 そう言うと、アタシは赤く染まってしまっているだろう頬を隠すために、さっさと先に昇降口から外へと飛び出した。
 するとシンジは慌てて折りたたみ傘を広げて手にすると、素早くアタシの方へと駆け寄りながら、その手を差し出してきたのだった。


「ほら、この傘、そんなに大きくないんだ。
 だから2人で使おうとしたらお互いに肩が濡れてしまうよ」


 傘を差し出しながら困った表情を浮かべているシンジに、アタシは素早くそのシンジの手に腕を絡めて見せた。
 そうこれは大義名分が介在しているのだから仕方のない行動なのだ。
 お互いの肩が濡れないようにするために必要不可欠な選択なのだから。


「ほら、こうやって、ぴったりとくっ付いてしまえば濡れないわよ」


「そ、そうかもしれないけどさ。
 あの、アスカさ――当たっているんだけど」


 これ以上ないぐらい頬を赤く染め上げるシンジの様子にアタシは心が弾んでしまう。
 それはもう百も承知、二百も合点。
 最近になって、すこぶる成長を遂げているアタシの胸の膨らみは、容赦なくシンシの腕に押し付けられている格好なのだ。


「あら、ナニが当たっているのかしら?
 きちんと言ってくれないと、アタシ、ちっとも判らないんですけど」


「ああもう――ほんとにアスカには敵わないなぁ」


 そう口にしつつも、結局は“胸が腕に当たっているんだ”と答えないシンジだった。
 まったく――やっぱり、シンジも男の子と言うべきか。
 アタシが気付いていないなら、そのままこのアタシの胸の量感を堪能したいとでも思ったのかもしれない。


 そんなシンジをからかいつつ、雨の中、歩いて行く。
 シンジの方はちょっと拗ねたように口を尖らせて見せるが、こんな雰囲気も楽しくて。
 アタシは大事なことをすっかりと忘れてしまっていたのだ。








 学校からの帰り道。
 寝坊してしまった朝は、この通学路がとても遠く感じてしまうのだけれど。
 心から楽しいと感じてしまっている今のアタシにとっては、あっという間に感じる程に短い時間だった。

 これ程にたっぷりとシンジと会話をしたのは随分と久しぶりで。
 最初こそ、その相合傘の状態に恥ずかしさもあったのだけれど、次第にその雰囲気にも慣れて、お互いに色々な日常の話を交わしたのだった。

 シンジの方は部活動の様子とか、クラスでの様子とか。
 アタシの方は、ヒカリと遊びに行った時の事とか――今でも頻繁に下駄箱に入れられてしまうラブレターの事とか。


「ふーん、やっぱりアスカはもてるんだね」


 ため息混じりにそう呟いたシンジの様子に、アタシは思わず反応してしまっていた。
 そう――そして不覚にも忘れていた事を思い出すきっかけとなるその言葉を口にしたのだ。


「なに言ってんのよ、アンタだって実は密かに人気があるんじゃないの?
 今日だって、放課後屋上で告られていたじゃない」


 勢いでそう口にしてしまってから、アタシは思わず足を止め、その場で俯いてしまった。
 そして、甘い夢のような時間は終わりを告げ、再びアタシは現実を直視する事になる。

 そう――こうやって、昔に戻ったように気軽に話は出来たけれど、それはあくまでも同僚として、元同居人として、そして友人として。

 シンジには恋仲になった相手がいて、本当はこんな風に相合傘で一緒に帰るなんて出来ないことだったのだ。
 だからシンジはアタシと一緒に帰りたがらずに傘を貸そうとしていたのかもしれない。


「あれ? どうして、その事をアスカが知っているの?」


 その問い掛けは実に真っ直ぐな声の響きで。
 まるで先ほどまでの日常会話の延長線上にあるかのように自然な口調だった。
 含みを持った感じでもなければ、秘密にしようとしていたような後ろめたさも感じられない。
 更には何故その事を知っているのかと追及するような雰囲気すらなく、アタシは少々拍子抜けだった。

 シンジのその態度に、アタシは少しばかり気が楽になったものの、それはかえって落胆の思いにも繋がった。
 アタシに対して後ろめたいという気持ちがないという事は、それはつまり、アタシのことを異性として感じていなかったという事なのだろうから。
 その為にアタシは言葉を返す事ができず戸惑っていると、シンジはちょっとだけ困ったように苦笑いを浮かべるとこう続けたのだった。


「まさか、あの場所にアスカが居たなんて驚いちゃったな…。
 すると、その後のことも聞いていたの?
 僕がその女の子の告白を断った後のこともさ」


 え――?
 今、シンジってば何て言った?
 ここここここ、告白を――断った?


「えええええー?!
 アンタ、あの子の告白を断っちゃったの?!」


 よほどアタシの声は大きかったのだろう。
 目を丸くしてシンジは驚いた様子を覗かせた。


「あれ? アスカさ、あの場に居たんでしょ?
 ひょっとして、その辺は聞こえなかったの?」


「き、聞こえなかったって言うか、その、アレよ!
 た、たまたまあの場にいて、あの女の子がアンタに告白を始めちゃったから、邪魔しちゃ悪いと思って、すぐに退散したの!」


 う、うん、大丈夫。
 ウソは言ってないわよね?
 そんなコトより、どうしても聞きたいことがある。
 どうして?
 ねえ、どうして――?


「ねえ、シンジ。
 アンタさ、どうしてその子の告白を断ったの?」


 その答えを聞くまでは絶対に逃がさないとばかりにアタシはシンジの手に絡めている腕に力を込め、真っ直ぐにアイツの目を見つめたのだった。

 ああ、でも――本当に聞いてしまっていいのだろうか。
 もしも――そう、もしも、アタシが望んでいる言葉をアイツが口にしたならば。

 アタシは本当に溶けてしまうかもしれない。


「えっと――言わなきゃだめ、かな?」


「だめ、絶対」


 聞いてしまうのが怖い。
 それでも聞かずにはいられない。
 息がつまりそうな程に胸が高鳴っていく。

 ああ、アタシって、こんなにもシンジのことが――。


「しょうがないなぁ、もう。
 やっぱり、アスカには敵わないや」


 そう言ったシンジの表情は、アタシの大好きな優しい笑顔で。
 その笑顔を間近で直視したためだろうか。

 アタシの胸は一際大きく高鳴ったのだ。
 その音はきっとそうに違いない。

 そう――これは恋に落ちる音なのだろう。

 アイツの手に絡めている自分の腕が震えている事に気付いたのはその時で。
 ああ、本当に息がつまりそう。
 そして――溶けてしまいそう。

 脳裏を過ったのは、昨夜、ネットで聴いた――恋する少女の曲。

 それはネット上の――架空の歌姫の曲だけれど、今なら心から共感できる。
 恋に落ちたオンナノコは、みんなそうなのかもしれない。



 “メルト、溶けてしまいそう――”



 その情感の籠ったフレーズを思い浮かべながら、アタシはしみじみと思ったのだ。

 お願い、時間を止めて――と。


 そんなアタシの胸中をどこまで察してくれていたのか。
 鈍感なシンジのことだから、全く気付いてくれていなかったのかもしれない。
 けれど、シンジははっきりとした口調でこう告げてくれたのだった。


「僕が好きな女の子はアスカひとりだから。
 だから、きちんと断ったんだ」


 その言葉が耳に届いた瞬間。
 ううん、アタシの胸に届いた瞬間。
 アタシは本当に溶けてしまったのかもしれない。

 だって、その時の記憶はそこから先が曖昧で。

 ただ、おぼろげに覚えているのは、倒れそうになったアタシをシンジがしっかりと抱きしめてくれたこと。
 ひょっとしたら、アタシは無意識の内にこう叫んでいたのかもしれない。

 溶けてしまいそうなアタシを、今すぐ抱きしめて!――と。


 土砂降りの雨の中だったけれど、シンジの胸の中に顔を埋めて、アタシはとても心地よく、そして温かなぬくもりに浸ることが出来たのだった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 明けて翌週の土曜日。
 6月6日のシンジの誕生日の朝。

 アタシはちょっといつもとはイメージを変えようとおめかしをしていた。
 あの曲に似せるつもりは無かったけれど――ううん、やっぱり意識したのかもしれない。

 だって、今日はシンジとのデートなんだもの!


 ピンクのスカート、そして花の髪飾りをさして出かけるの。
 うん――今日の私は一際かわいいのよ!


 碇シンジっ、覚悟してなさい!
 今度はアンタが溶ける番になるんだからね!





- おわり -






 早いもので当サイトは開設4周年を迎えることができました。
 僻地と呼ぶに違和感のない当サイトが、こうして無事に4周年を迎えることができましたのは、定期的に当サイトまで足を運んで下さっておられる皆様のおかげであります。
 本当にありがとうございます。

 これからも、更新ペースは遅いものの、頑張って創作活動を続けて参りたいと存じます。
 宜しければ、これからもお付き合い頂きたくお願い申し上げます。

 さて――本作品は、各VOCALOIDによる多くの作品群の中でも、個人的にお気に入りの曲のひとつであります「メルト」をイメージしながら創作致しました。
 ご存知でない方は、こちらで視聴できますので、ぜひ一度、お聴きになって下さいませ。

 それにしても、前作では「ハジメテノオト」を作中で使い、今回は「メルト」を――というように、すっかり初音ミクをはじめとした各VOCALOIDの作品にハマっている今日この頃です。
 これからもひょっとすると、VOCALOID作品をイメージしながら創作するというケースがあるのかもしれません。

 さて、最後に業務連絡です。
 次回更新予定は、シンジ誕生日記念の短編物となる予定です。
 今回の作品はアスカ視点のお話でしたが、次回は、今回の作品と同じ時間軸、そしてその続編も兼ねたシンジ視点のお話になります。



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