※この作品は『溶けてしまいそうなアタシを』と同じ時間軸の描写の部分と続編となる描写があります。
 お手数ではございますが、同作品からお読み下さいませ。



『溶けてしまった僕』

(シンジ誕生日記念)


by イイペーコー



 一人暮らしをするようになって、早いもので2ヵ月が経った。
 いつまでも精神的な部分で、ミサトさんやアスカに頼ってばかりではいけないと思っていたから、多少は淋しいこともあるけれど、一人で暮らすようになって良かったと思う。

 ――とは言ったものの、家事全般的な部分では、ミサトさんやアスカの現在の生活は大いに心配で。
 最近では加持さんから頼まれて、毎週日曜日はミサトさんに料理を教えに行っているのだけれど、なかなか先行きは遠く険しい道のりだと思う。

 アスカの方も大いに不安と言うか何と言うか。
 アスカは昔から好き嫌いがはっきりしていて、特に緑黄色野菜の類はなかなか食べてくれなくて苦労した記憶があるぐらいだし。
 放っておいたら、インスタント食品やジャンクフードばかりの食生活になってしまうのではないかと思い、せめてお昼ご飯だけでもバランスの取れたものを食べて貰いたくて、今でも学校のある日は毎日お弁当を作ってあげているんだ。

 やっぱり、ほら。
 好きな女の子には健康でいて欲しいから、さ。

 好きな女の子――とは言ったものの、それは言うまでもなく、僕の一方通行のもので。
 片思いしているその相手にお弁当を作り続けるなんて、下心があると思われているのかもしれないけれど。
 将来は別として、今はアスカに僕の気持ちを伝えるつもりはない。

 アスカは僕にとってあまりにも眩しい存在で。
 どんなに努力したって、僕が彼女とつり合いが取れるまでに成長することは出来ないかもしれない。
 けれど、僕は心に誓ったんだ。
 たとえ今はその資格がなくても、いつの日かアスカの隣に並べるぐらいの相応しい男になって見せるって。

 そしてその時にアスカに告白をするんだ。
 君の事が大好きだ――って。

 それまでは勉強もスポーツも一生懸命に頑張って、己を鍛えなくては――と思っているのだけれど、これはきっとミサトさんがプロの調理師になれるほどに料理の腕が上達するよりも、遙かに遠い道のりなのかもしれない。

 そもそも、アスカは異性から人気があるし。
 アスカにとっての意中の人だった加持さんはミサトさんと結婚してしまったけれど、いつの日かきっと再び、アスカの想いを一身に受け止めるような男性が彼女の前に現れるだろう。

 それははたして来年なのか、来月なのか、それとも明日なのか。
 僕に残された猶予はあまりないのだろう。
 だからこそ、僕は一日でも早くアスカに認められるような男になれるよう成長しなければならないんだ。

 そんな訳で、早朝はジョギングして体力作り、日中は学校での授業に集中、放課後は部活動で汗を流し、夜は睡眠時間を可能な限り削って勉強の時間に費やす毎日なのだけれど。
 それでもやっぱり少しばかり息抜きは必要という事で、1日30分だけ――と時間を決めて、インターネット上で数多く公開されているバーチャルアイドルの歌声を聴くというパターンがすっかりと習慣付いてしまった今日この頃だった。


 “メルト、溶けてしまいそう――”


 それはとある曲――そう、恋する少女の曲のフレーズで。
 心地良いその歌声を聴きながら僕は思い耽っていた。

 アスカもこんな風に誰かに恋心を抱いて身体が溶けてしまいそうな思いに苛まれることがあるのだろうか。
 悲しいかな、その対象が僕になることなんてあり得ないぐらいは判っているつもり。
 けれど、もしもそんな奇跡が訪れたなら――。


 “今すぐ わたしを抱きしめて――!”


 情感に満ちたそんな歌詞を聴きながら、僕がその相手だったら、ぎゅっと抱きしめて離したりしないのに――と、なんとも恥ずかしい想像を浮かべてしまった所で休憩の30分が過ぎてしまった。

 さて――現実に戻って勉強を再開しなくては。
 今のままでは、想像の中で彼女を抱きしめることは出来ても、現実の世界では限りなく可能性はゼロに等しいのだから。

 ああ、でも――もしも抱きしめたなら、きっとアスカの身体は柔らかくていい匂いがするんだろうな。

 開いた参考書に視線は向かわず、思わず宙を仰いでしまう。
 うう、こんなことじゃダメだ。
 まるでヘンタイかストーカーみたいな発想だよ。
 溶けてしまいそうなのは、僕の頭の中なのかもしれない。

 少々、強めに力を込めて、両の手の平で頬を叩いて目を覚まさせる。
 こうして、なんとかこの日の夜も、予め設定していたノルマを果たすことが出来たのだった。








 そんな日々が続いていたある日の放課後のこと。
 試験前という事もあって部活動はお休みで。
 すぐに家に帰って試験勉強をしなければ――と、思っていたのだけれど、クラスメートの女の子に呼び出され、僕は屋上へと足を運んでいた。

 天気予報通り、空は快晴で。
 そんな天気も手伝って、きっと屋上には何人か生徒が残って居るのではないかと思っていたのだけれど、試験前という事もあってか辺りを見渡すと周囲には誰も居なくて。

 こんな所で何の話があるのだろう。
 僕を呼び出したその女の子は文武両道を兼ね揃えたクラスでも一、二を争うほどの才女で、可愛い容姿や明るい性格も手伝ってクラスでも人気者だ。
 試験勉強の相談なら彼女より学力の劣る僕を相手に選ぶ訳はないだろうし、人間関係で悩んでいるような話も聞かないし。
 そもそもどんな悩み事であれ、相談相手なら僕よりも適任な人は他に大勢居ると思う。
 教室を出てここに辿り着くまで、色々と考えてみたのだけれど、どんな話なのか全く分からなかった僕だった。

 それにしても、何故、屋上の更にその上に設置されている給水塔が待ち合わせの場所なのだろう。

 からかわれているのかな?――と思いつつも、そんな事をするような子ではなかった筈だと思いつつ辺りを窺うと、高い位置にある給水塔の場所へと上るために設置されてある金属製の梯子が目に留まった。
 その梯子には、“関係者以外立入禁止”の札が掲げてあり、僕は思わず宙を見上げて、苦笑いを浮かべてしまう。

 その時、脳裏を過ったのは、かつて使徒と戦っていた頃のこと。
 使徒に心を覗かれ、とても辛い思いをしたアスカに、僕は傍に歩み寄って慰めることができなかった。
 その時、僕の行く手を遮ったのが、“立入禁止”のテープ。
 時にはその禁忌を犯してでも行動で示さなくてはならない時だってあるということを、情けないかな、僕は後になってから思い知った。

 過ぎてしまった時の流れは決して元に戻らない。
 だから、せめて――もしもこれから同じようなことがあったなら、今度こそは躊躇なくアスカを助けたい。

 そんな確固たる気持ちを抱きつつ、思わず立ち止まってしまった僕だった。
 かつてのあの時――傷ついたアスカを前にした時には越えられなかったその境界線。
 それなのに他の女の子のためにルールを破ることに、少しだけ後ろめたい思いがあってなかなかその一歩が踏み出せない。

 とにかく、ずっとこの場に立ち止まっていても仕方がなくて――。
 的外れで筋違いかもしれないけれど、僕は心の中でそっと『ごめんね、アスカ』と、一言謝ってから、その表示板が付いているチェーンを跨いで梯子を上り給水塔の所へ向かったのだった。


 すると、その女の子は既にそこに居て、僕の顔を見るなり笑顔を見せて手招きして見せた。


「碇くんっ、こっちこっち」


「う、うん」


 呼ばれるままに給水塔を中心にしてその周囲を回り込むように進んで行くと、そこは実に見晴らしの良い場所で。
 ちょうど校舎の裏側に当たるために眼下に人影はなく、視界に広がっているのは小高い丘と、その向こうに見える大きな湖だった。
 あの湖は確か使徒との戦いで出来たものだったっけ――と、そんな事を考えながら苦笑いを浮かべている僕に彼女は話し掛けてきた。


「ここって、とっても景色がいいでしょ。
 おまけにこの給水塔が影になって、屋上に他の生徒が居ても気づかれないし」


「そう、だね……」


 景色がいいのは判るとして、他の生徒を気にするのは何故だろうか。
 やはり他人に聞かれては困る相談事なのかな。
 どんな相談であれ、相手が僕では人選ミスのような気がするけれど――とにかく話を聞くべきだろう。


「呼び出してごめんね、碇くん」


「ううん、別に構わないよ。
 今は試験前で部活も休みだし。
 それで、僕に話って何かな?」


 そう尋ねてみたところ、何故か彼女は急に俯いて頬を赤く染めてしまった。
 何か僕は恥ずかしいことを言ったのだろうか――と、心の中で口にした内容を反芻してみたものの、思い当たる点は見つからない。

 そんな訳で小首を傾げていると、彼女は意を決したように顔を上げ、視線を僕の方へ向けてきた。


「あのね――碇くんは気が付いてなかったと思うけど、私、高校に入学してから、ずっと碇くんのことを見ていたんだよ」


 見ていた?
 僕を?
 ええと、ひょっとして僕は何か目立つような恥ずかしい言動をしていたのだろうか。
 しかも、入学してからずっと。
 それをわざわざ彼女は呼び出してくれて、親切にも注意してくれるということなのかな?

 状況的に少々違和感はあるものの、考えられる限りでここに呼び出された理由の推論を導いて、僕はおとなしくその言葉を待った。
 はたして、どんな注意を受けるのだろうか――と。

 すると、彼女は僕の想像の限界を遙かに超えたことを口にしたのだった。


「私、碇くんのことが好きなの。
 だから、その――良かったら、私を碇くんの彼女にしてくれないかなって思って」


 そう告げられて、僕はすぐにその言葉の意味が理解できず固まってしまう。
 ええと、聞き間違いでなければ、彼女が――僕の事を、好き?

 それはもう衝撃的と言おうか、それとも何と表現するべきか。
 とにかく、驚いた。

 生まれて此の方、異性から好意を寄せられたことは初めてで。
 ひょっとすると、これからの長い人生を含めても、最初で最後の体験なのかもしれない。

 それこそ、からかわれているのかもしれないと思ったけれど、そんな考えは彼女に対して失礼だろう。
 何故なら、彼女は僕にそう告げてから、ずっと思いつめた表情で僕の言葉を待っているのだから。

 それなら、きちんと返事をしなくては。
 少しでも迷っているかのような素振りをしては、それもまた彼女に対して失礼なのだろうから。


「ごめんなさい。
 君みたいな素敵な女の子から好意を寄せられること自体、分不相応だと言うことは判っているんだけれど――本当にごめん」


 そう答えて、僕は深々と頭を下げた。
 相手が異性かどうかは別として、これほど真っ直ぐに好意を示されて、正直に言えば、僕はとても嬉しかった。
 言い表し難い喜びが沸々とこみ上げて、渇いた砂地に零れた水がみるみる浸透していくように、こんな僕に向けてくれた愛情ならば、その全てを受け止めたい――と。
 愛情に飢えて幼児期を育ったためだろうか、そんな気持ちが脳裏を過った。
 実際、これが14才の頃までの僕ならば、戸惑いつつも喜んで告白を受け入れていただろう。

 けれど、今は違う。
 たとえこの恋が成就する可能性は殆どなくても、僕はアスカのことが好きなのだから。
 だから迷うことなく断ることができた。

 すると、彼女は悲しそうに視線を逸らし、少しだけ声を震わせてこう答えた。


「あーあ、やっぱり、玉砕か。
 みんなが言ってた通り、碇くんって好きな女の子が居るのかな?」


「ええっ? 僕ってそんな風にみんなから見られているの?
 えっと、それに“やっぱり玉砕”って。
 僕の方が君に告白して振られるならその言葉通りのイメージだと思うけどさ」


 そう、まるでその言い方は、彼女は告白する前から、僕が断るだろうと予想していたみたいで。
 数多くの男子生徒から人気を集めている彼女と、何の取り柄もない平凡な僕とでは、立場が逆なのではないかと思うし。
 そもそも、何故、彼女が僕なんかに興味を持ったのか、どんなに時間を費やしてもその理由は想像できないと思う。


「碇くんさ、ちょっと自分のことを過少評価し過ぎだよ。
 実際、女の子の間では、碇くんってとても人気があるんだから。
 みんな牽制し合っているから、なかなかアクションを起こせないでいるみたいだけどね」


「そ、そうなの?
 いや、でもちょっと信じられないよ。
 僕って本当に平凡で、自慢できることなんて何ひとつ無いし。
 それに――」


「ストップ。それ以上、自分を卑下するようなこと言うの禁止。
 それって、碇くんに告白した私に対しても失礼だと思うよ」


「ご、ごめん――」


 確かにその通りなのかもしれない。
 僕は慌てて、再び頭を下げた。
 すると、何か琴線に触れることがあったのか、彼女は途端に笑い始めた。


「ふふふっ、やっぱり、碇くんっていいなぁ……。
 そういう所もね、実を言うと気に入っているんだ。
 ――で、勇気を振り絞って告白して、見事玉砕してしまった私なら、聞く権利はあるよね?
 碇くんが好きな女の子の名前」


「えっ、えええええっ?!」


 どうして、そんな理屈になるんだろう。
 女の子の思考って、僕には一生判らないかもしれない。


「あ、あのさ、――言わなきゃだめ、かな?」


「だめ、絶対」


 取り付く島がないとはこの事だろうか。
 好きな女の子なんて居ない――って、嘘をつくことも出来るのだろうけれど。
 僕なんかのことを好きになってくれた理由はどうであれ、面と向かって告白してくれた彼女に対して、嘘をつくなんて出来る筈はなかった。


「僕は、2年前からずっと、ある女の子に片思いしているんだ」


「2年前って言う事は、ああ、やっぱり惣流さんがその相手なんだ」


「うん――って、えええっ?!
 なんで、そのことを知っているの?!」


 僕って、そんなに気持ちが表情に出てしまうタイプなのだろうか。
 誰にも知られていないと思っている秘めた恋心を見透かされて、僕はあたふたとしてしまう。


「なんで――って言われてもね、ちょっと困っちゃうな。
 とにかく、私だけでなくって、碇くんの事を気にしている女の子はみんな知っていると思うよ。
 碇くんや惣流さんと同じ中学出身の人たちから情報を聞いたりしたし。
 それに碇くん、毎日惣流さんにお弁当を作ってあげているでしょ。
 健気なその姿を見ていたら気付くと思うよ」


「そっか――そうだよね、あんな風にお弁当を作って渡していたら、いかにも下心があるって思われちゃうよね」


 周囲にいる他の生徒達が気付くぐらいだから、アスカも僕の気持ちを察しているのだろうか。
 いやいや、アスカに限ってそんなことはない筈だ。
 お弁当自体は同居していた頃からずっと続けていた訳だし。
 最近は僕に対しての接し方が少しだけ変わってきたように思うけれど、基本的には、良くて弟扱い(僕の方が半年ぐらい年上だけど)、悪く言えば下僕扱いなのだから、僕の言動なんて眼中にないだろう。


「下心があるだなんて、誰も思っていないわよ。
 少なくても女子の間ではね。
 ただ、本当に碇くんって健気だなぁ――と思って」


 健気と評されて、男としては喜ぶべきなのかどうか。
 ちょっと微妙な所なのかもしれない。
 どう言葉を返すべきなのか困ってしまって苦笑いを浮かべていると、彼女は更に返事に窮するようなことを言い出したのだった。


「碇くん、さっきは片思いだって言っていたけれど、それはどうなのかな。
 惣流さんの方も、碇くんの事が好きなのだと思うわよ――ただの女のカンだけど。
 まあ、私としては自分のカンが外れている事を願っているけどね」


「は、はあ……」


「もう、碇くん、私が言った意味、判ってないでしょ。
 つまり、もしも碇くんと惣流さんがうまくいかなかったら――という下心を主張してみたんだけど」


「ええと、ごめん。
 それってどういう意味なのかな?」


「碇くんが色恋に鈍感な事は知っているけど、それぐらいは自分で考えようね」


 僕の問いかけに間髪置かずにそう答えると、彼女は「それじゃ私は先に帰るから」と言い残して、その場から立ち去って行った。
 僕が告白を断った直後は悲しそうな表情すら見せていたのに、立ち去る頃には笑顔まで覗かせてくれていて、内心少しほっとしたぐらいだった。

 そんな彼女を見送った後、僕はしばらくその場を離れようとはしなかった。
 給水塔の壁面を背もたれにしてその場に座り、ぼんやりと眼下に広がる景色を眺めながら、思い浮かべていたのは、アスカのことだった。

 アスカは今頃なにをしているだろうか。
 もうとっくに帰宅してしまったのだろうけれど、僕は無性に彼女に会いたくなっていた。

 思えば最近の僕は、アスカに会う事を少し敬遠していた。
 今はまだ想いを伝えることのできる立場ではないのだから、顔を合わせることにより、その想いが更に強まったりしないように気をつけるために。

 けれど、それは間違いなのではないだろうか。
 努力して成長するまでは――などと大義名分を並べていた僕だけれど、要はそれって逃げていただけなのではないだろうか。
 告白し、それを断られてしまって自分が傷つくのを恐れて、僕は決してその一歩を踏み出そうとせずに、安全地帯に留まっていただけなのではないか。

 好きだったら、「好き」だとはっきりと伝えるべきなのだろう。
 それを僕はあの子に教わったのだと思う。
 勇気を持って行動しなくてはならないのに、結局、僕は2年前から全く成長できていなかったという訳だ。


「告白しよう――アスカに」


 たとえ玉砕してしまうにせよ――そう、きっと玉砕してしまうのだろうけれど、想いは伝えなければ、決して前には進めない。
 そうさ、たとえ振られたって諦めたりはしない。
 何度でも頑張ってみよう。

 心にそう決めた僕はようやく立ち上がった。

 会いたい。
 会いたい――そう、アスカに会いたい。
 1日でも、1時間でも、いいや、1分でも1秒でも早く、アスカに会いたい。


 そんな時だった。

 さっきまで天気は良かった筈なのに、気がつくと空は鉛色に染まっていて、更にはぽつりぽつりと大粒の雨が降り始めた。


「そんな――天気予報の嘘つき……。
 今日は一日晴天だって言ってたのに」


 アスカに告白しようと決めた直後に空が曇って、雨が降り出すなんて。
 なんだか不安な気持ちになってしまう。

 そんな僕の心境を余所に雨足はだんだんと激しくなっていく。
 兎にも角にも、校舎の中に入らなくては。

 僕は慌てて梯子を下りると、屋上を後にして、荷物が置きっ放しになっている教室へと戻ったのだった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 教室に立ち寄ってカバンを取り、そのまま昇降口へと向かった僕を待っていたのは、大げさに例えるならば運命の悪戯だった。


「あれ? アスカも今帰る所なの?」


 今、一番会いたかった人に会えて、僕らしくないと思いつつも妙に気持ちが高揚して自分でも判るほどに笑顔が零れてしまう。
 けれど、肝心のアスカの方は急に降ってきた雨のせいか機嫌が悪い様子で。


「見れば判るでしょ。
 アンタと違って予定のないアタシは真っ直ぐに帰るだけよ」


 あからさまに言葉に棘を感じて、思わず挫けそうになってしまう。
 告白するにしても、やはりタイミングが重要なのかもしれない。
 それにとりあえずは、この土砂降りの雨の中、おそらくは傘を持っていないだろうアスカをこのまま帰す訳にはいかないと思い、カバンの中から折りたたみ傘を取り出して彼女に貸そうとしたのだけれど。

 話し込んでいる内に何故か相合傘をして一緒に帰ることになり、内心、嬉しく思いつつも、戸惑いを隠せない僕だった。


 そして雨の中の帰り道。
 幸いにも色々と世間話をしている内にアスカの機嫌は良くなってくれて。
 表面上、僕は平静を装いつつも、内心では胸が激しく高鳴ってしまい、すぐ傍にいる彼女にその音が聞こえてしまうのではないかと心配してしまう程だった。


 告白するんだ。
 そう――きちんと、アスカに好きだって伝えなくちゃ。

 言わなくちゃ。
 そう、早く告白するんだ。


 心の中では何度“好き”だと言ったことだろう。
 けれど実際には、どうしてもその言葉が出てこない。
 情けないかな、ついさっき屋上でそう誓った筈なのに、彼女を前にすると躊躇してしまう。

 もしも告白して断られてしまったら――。
 僕はあの子のように笑って振る舞えることが出来るだろうか。

 せっかく今はこんな風に親しく世間話ができる友人という立ち位置を得ているのに、告白することによって、この関係が崩れてしまうかもしれない。
 そう――僕の方は諦めずに何度でも頑張ろうと思っても、肝心のアスカの方は僕との距離を取ろうとするかもしれないじゃないか。


 そして脳裏に浮かんだのは、あの曲のフレーズ。


 “好きだなんて 絶対にいえない…”


 ああ、僕はあの曲の少女と同じなんだ。
 手を伸ばせば届くどころか、腕を絡めている状態なのに――なんてこの距離は近くて遠いのだろう。

 そして――だんだんとアスカが住んでいるマンションが迫ってくる。
 もう着いてしまう、そして今日はもうお別れしなくちゃならなくなる。

 今日言えなかったら、きっと明日も同じ。
 それどころか、ずっとこれからも。

 告白しよう――って。
 好きだって伝えようと誓ったのに。

 結局、僕は2年前から全く成長できていないんだ。
 肝心な所ではいつも臆病で――そして逃げてしまう。

 そんな内心を悟られないように表面上は必死に平静を装い続けている僕に追い打ちを掛けるような話の流れになってしまう。
 アスカにとっては他愛もない日常茶飯事のことなのだろうけれど――その話と言うのは、中学の頃から変わらずに、今でも彼女の下駄箱は多くの男子生徒達からのラブレターの投函箱と化しているという事。

 アスカにしてみれば理想の男性は加持さんみたいな人で。
 つまり、僕だってアスカにしてみれば、ラブレターを出しても彼女に無視され続けているその男子生徒達と何ら変わりはない訳で――。

 そこまで思い巡らせると、僕はもう穏やかに振る舞い続けることが出来なくなりつつあった。


「ふーん、やっぱりアスカはもてるんだね」


 思わず、深いため息を洩らしてしまう。
 違う、こんな事を言いたい訳じゃないのに。
 きちんと告白したいのに。

 心、ここにあらず――という心境だったのだと思う。
 強迫観念のように「告白しなければ」と、その事ばかりが頭から離れなかったために、アスカの態度に変化があったことを僕は気がつかず、淡々と受け答えてしまったんだ。


「なに言ってんのよ、アンタだって実は密かに人気があるんじゃないの?
 今日だって、放課後屋上で告られていたじゃない」


「あれ? どうして、その事をアスカが知っているの?」


 そう告げてしまってから、大切な情報がアスカに伝わってしまっている可能性が高い事に気がついた。

 あの場にアスカが居たという事は――聞かれてしまったのだろうか。
 僕がアスカに好意を寄せているということを。


「まさか、あの場所にアスカが居たなんて驚いちゃったな…。
 すると、その後のことも聞いていたの?
 僕がその女の子の告白を断った後のこともさ」


 もはや冷静に振る舞っている余裕はなかった。
 おそらくはきっと僕はとても困った表情をしているだろう。
 おそるおそるといった様子で、僕はそう問いかけたのだ。

 もしも、アスカが僕の気持ちを既に知っていたならば。
 僕はもう次の瞬間には、この土砂降りの雨の中、逃げだすように走り出してしまうことだろう。

 するとアスカは何故か僕の問い掛けからは的を外して、別の部分に激しく反応してしまったんだ。


「えええええー?!
 アンタ、あの子の告白を断っちゃったの?!」


 アスカのあまりのその大きな声に僕は思わず身をすくめてしまっていた。
 そして再び確認するように僅かに声を震わせながら僕は問い掛けたのだ。


「あれ? アスカさ、あの場に居たんでしょ?
 ひょっとして、その辺は聞こえなかったの?」


 すると何故かアスカは慌てふためいているのか口を金魚のようにぱくぱくとさせた後、すぐに言葉を返してきた。


「き、聞こえなかったって言うか、その、アレよ!
 た、たまたまあの場にいて、あの女の子がアンタに告白を始めちゃったから、邪魔しちゃ悪いと思って、すぐに退散したの!」


 その返事に僕はほっと安堵のため息をついた。
 良かった――アスカは僕の気持ちをまだ知らないんだ。
 これでまた――。


 これで、また――逃げるのか? 僕は。
 臆病に自分の気持ちを隠して、ずっと“安全な”友人という名のぬるま湯に浸り続ける気なのか?

 本当はきちんと告白したいのに、どうしてもその一言が言えない。

 あの曲の少女の心境と全く同じで。
 息がつまりそうなぐらい胸が高鳴っているのに、“好きだ”という一言を口にする事ができない。

 そんな時だった。
 気がつくとアスカは何か思いつめた表情をしていて。


「ねえ、シンジ。
 アンタさ、どうしてその子の告白を断ったの?」


 そう言った後、アスカは僕の手に絡めている自分の腕に力を込めた。
 まるで逃がさないと暗に言っているかのように。
 そして彼女は真っ直ぐに正面から僕の目を見つめたのだった。


 これは退路を断たれたのだろうか。
 アスカは僕の気持ちを吐露させようとしているのだろうか。
 でも、それはどうして?

 なぜ、アスカは僕の気持ちが知りたいの――?


「えっと――言わなきゃだめ、かな?」


「だめ、絶対」


 最後の抵抗のつもりでそう言ったものの、あっさり一蹴されてしまった。
 取り付く島がないとはこの事だろう。
 そのやりとりは、あの子の時と全く同じで僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 口にするのが怖い。
 “好きだ”と言ってしまったら、もう僕は自分を保ち続けることができないかもしれないのに。

 時間を止めて――と。
 震えながらそう言い出しそうになった僕の目に映ったのは、不安に満ちた表情の女の子。

 アスカが――震えている?


 ああ、僕はなんて愚かなのだろう。
 二度とアスカに悲しい思いはさせないと誓った筈じゃないか。
 彼女にこんな表情をさせるぐらいなら――たとえどんな結末であれ、全てを告白する方が遙かにいい。

 結局、僕は最初から最後までアスカに頼ってしまっているのだろう。
 自分ひとりでは勇気を示すことが出来ず、彼女の言葉と、その姿に後押しされないと、この一歩を踏み出すことができないのだから。

 情けないけれど、これが今の僕のありのまま。
 けれど、きっといつの日か、彼女に頼られるぐらい頼もしくなりたい。
 いや、なって見せる。

 そして今、僕のやるべきことはただひとつ。

 すると僕は、先ほどまでずっと何かに追われていたような強迫観念がするりと抜けて、自然と笑みを浮かべることが出来たのだった。


「しょうがないなぁ、もう。
 やっぱり、アスカには敵わないや」


 それは本当に本心で。
 きっと僕は一生かかっても彼女には勝てないのだと思う。
 そのことをひしひしと痛感しながら、どうしても、どうしても言えなかったその一言は、あっさりと口から零れたのだ。


「僕が好きな女の子はアスカひとりだから。
 だから、きちんと断ったんだ」


 言えた。
 やっと好きだと、言えた。

 けれど、こんな言い方はまだすっきりしない。
 だから、もっとはっきりと“アスカが好きなんだ”――と。
 そして、“僕の彼女になって欲しい”と、そう告げようとしたその時だった。

 アスカは急に全身から力が抜けてしまったかのように僕の胸の中へと崩れ落ちた。
 慌てて僕は彼女を抱きとめたのだけれど、片手は傘で塞がっていて、虚を衝かれた格好だったために、倒れそうになってしまう。

 どうして急に?

 訳も分からず、不十分な体勢のまま片手でアスカを支えている僕に、彼女はこう叫んだのだった。


「溶けてしまいそうなアタシをっ!
 ――今すぐ抱きしめて!」


 その言葉が耳に届いた瞬間。
 ううん、胸に届いた瞬間。

 僕は傘を放り投げ、土砂降りの雨の中、アスカを抱きしめたのだった。
 頼りない僕の胸板の中で顔を埋めている彼女を――もう決して離すものかと主張するように抱きしめ続けて――。

 僕はそこで思考回路が止まってしまった。

 ううん、違う。
 溶けてしまったんだ。

 降りしきる雨もどこか心地良くて。
 こんなに幸せな気持ちに浸り続けることができるなら、たとえ本当に溶けてしまったとしても構わない。

 そんな風に思い浮かべながら、本当に時間が止まってしまったかのように、僕はずっとアスカを抱きしめ続けたのだった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 明けて翌週の土曜日。
 6月6日――つまり今日は僕の誕生日。

 アスカの発案で、今日は朝から遊園地へとお出かけ。
 天気にも恵まれて夕方まで楽しんだ後、夜は彼女の部屋へと招かれて晩御飯をご馳走になった。
 意外にも――と言ってはアスカに失礼なのだろうけれど、初めて食べさせて貰った彼女の手料理はなかなかに美味しかった。
 こんなにも充実した誕生日を堪能できたのは勿論初めてで――あまりに幸せすぎて不安になってしまうのは僕の悪い癖なのかもしれない。

 そんな風に表現すると、なんだか僕とアスカは既に恋人同士になったかのような感じがするのだろうけれど、その実は曖昧な部分があって――。

 あの土砂降りの雨の中、僕は確かにアスカに対して、好きだということを伝えたのだけれど、あの後、彼女は意識が途切れてしばらくは目が覚めなかったし、はたして僕の告白を聞いていてくれたのかどうかはっきりしていないんだ。

 すっかりと仲良くなれて一緒に出掛けるようになったのだから、やはりこれってお付き合いを始めたことになっているのだろうか。
 それともアスカ的には、僕のイメージとは異なる線引きが出来ているのかどうか。

 とにかく、アスカからはまだ一言も好意を示すような言葉は聞かされていなくて、ちょっぴり心配だったりする。

 ――とはいえ、贅沢を言ったらバチがあたると思う。
 こんな風に大好きな女の子と二人っきりで誕生日を過ごすことが出来たのだから、それで充分。

 この先、僕たちにはいくらでも時間があるのだから、これからも努力して、少しずつでも彼女の気持ちが僕に傾いてくれるように頑張らなくてはならない。

 さて――いくらでも時間があるとは言ったものの、それはあくまでも将来に向けた比喩的なもので。
 すっかりと夜も更けて、時計の針は9時を指し示している。
 今夜に限って言えば、もうさすがに2人で過ごす時間は残っていない。
 あまり長居してしまっては、アスカに迷惑が掛かるだろうし、そろそろ帰るべきだろう。

 そう思った僕は、テーブルを挟んで向かい合って座っているアスカに声を掛けた。


「アスカ、もうこんな時間だし、そろそろ帰るね。
 今日は本当にありがとう。
 僕、こんなに楽しい誕生日が過ごせたのは初めてだよ」


 そう言って立ち上がった僕を制するように、アスカは途端に表情を曇らせて立ち上がった。


「ちょ、ちょっと、シンジっ。
 今夜はもう遅いからっ、その、夜道は危ないし――。
 だから、ほら、もうっ――悟りなさいよっ」


「悟るって――ええと。
 うん、確かに最近は色々と物騒だよね。
 だから、あんまり遅くならない内に帰ろうと思うんだけど」


 心配してくれるのは嬉しいけれど、僕だって一応は男だし。
 まかり間違っても彼女に送って貰う訳にはいかない。
 それはまあ、確かにアスカの方が強いのかもしれないけれど。

 けれど、アスカは僕がそう答えると、顔を真っ赤にして怒り始めた。


「ああもう、ホントに鈍感なんだからっ!
 なんで1から10まで説明しないと判ってくれないのよ!
 今夜はもう遅いから、泊まっていけ――って言ってるの!」


 声を荒げてそう言い終えると、アスカは頬を赤く染めたまま、ぷいと横を向いてしまう。
 ああ、そんな仕草も可愛いなぁ――と感じてしまうのは惚れた欲目だろうか。


「泊まっていくって――ここに?」


「他にどこがあるのよ!
 心配しなくてもアンタの寝るところぐらい準備してあげるから心配しなくていいわよ」


「いや、でも、ほら――昔と違って、僕らももう高校生だし。
 それにミサトさんも一緒じゃないんだからさ」


「なにつまんないコトを心配してんのよ。
 そんな世間一般の常識とか倫理感を気にするより、サードチルドレンとしての身の安全を心配すべきでしょ。
 もしも帰り道に万が一があったらどうするつもり?」


「万が一って――大丈夫だと思うよ」


「ああもう問答無用よっ!
 アタシがそう決めたんだから、決定事項なの!
 今夜、シンジはアタシの部屋に泊まっていく!
 いいわね?
 ほら、判ったら、さっさとお風呂に入ってきなさいっ!
 もしもに備えて、ちゃんと身体の隅々まで洗いなさいよっ!」


 こうなってしまうと、もうアスカに逆らうことなんて出来はしない。
 半ば背中を蹴飛ばされるようにして、僕は浴室の脱衣所に押し込まされてしまい――仕方なく、服を脱いでお風呂に入ることになってしまった訳なのたけれど。

 それはそうと、“もしもに備えて”――って、どんなもしものケースがあると言うのだろうか。

 兎にも角にもきちんと身体を洗わなくては。
 普段アスカが使っている浴室だと思うと、妙に気持ちが昂ってしまうのだけれど――健康的な男子高校生なのだからそれぐらいは許して貰いたいところ。

 湯船から洗面器でお湯を汲み、何度か身体を洗い流した後、彼女から借りたタオルにボディソープを多めに付けて、さて身体を洗おうかとしたその時だった。


「シンジー、入るわよー」


 そう言い終えるが早いか、浴室の扉が勢いよく開け放たれると、裸身にタオルを巻いただけという格好のアスカが浴室内に入ってきて――!?


「あああああ、アスカっ、今、僕がお風呂に入っているんだけどっ?!」


「そんなの知っているわよ。
 ほら、そんなに動揺してないで、そこに座りなさい。
 今日はシンジの誕生日でしょ。
 だからほら、背中を流してあげようと思って。
 だって――これぐらい、こ、恋人同士なら当然のコトだし」


 そう言うと、アスカはこれ以上ないぐらい顔を真っ赤にしたのだけれど。
 その時の僕は、そんな可愛い彼女の様子を楽しむような余裕などある筈もなく。
 付け加えれば、アスカが口にしたとある単語に、大きく反応してしまっていたのだ。


「恋人同士?
 ――ということはやっぱり、僕とアスカって、そういう関係だったの?」


 後から振り返ってみれば、やはりこの僕の発言は、所謂雉も鳴かずば撃たれまい、という事であったと思う訳で。


「少なくとも、アタシはそういう関係だと思っていたんだけど。
 どうやら、アタシの勘違いだったのかしら?」


 それはもう凄い形相で。
 空想上の存在だから本来はたとえる事自体おかしいことなのだろうけれど、もしも鬼がいるとしたら、こんな雰囲気を漂わせているのだろうと思ってしまった僕だった。
 そして射抜くような鋭い眼光で睨まれて、僕はもう蛇に睨まれた蛙状態。


「ふーん、そうなんだ。
 シンジったら、恋人同士でなくても、デートしたり、女の子の部屋で一緒に晩御飯を食べたり、あげくには一緒にお風呂に入ったりできるんだ」


「いやその、そもそも一緒にお風呂って、それはアスカが強引に――」


「問答無用よっ!」


 元々、口より手が早い性格は相変わらずで。
 言い終えるよりも早くアスカは動いた。
 そして、彼女が得意としている後ろ回し蹴りを放ってきたのだけれど――。

 僕だって、最近はそれなりに鍛錬を続けてきたから、考えるよりも早く身体が反応して、その豪快な大技をしゃがんでかわしてしまう。

 すると、宙を斬ってしまったアスカの回し蹴りは思わぬ副産物――というか爆弾を投下してしまう事になってしまったんだ。

 そう――彼女が素肌に巻いていたタオルは、そもそも身に付けるものとして作られたものではないから、激しく動けば当然のように結び目が解けてしまって。
 そうなると最早、重力に耐え続けることなど出来る筈もなく、タオルははらりと床に落ちてしまったのだ。
 しかも、回し蹴りを放つ為に、アスカが大きく開脚していたその最中に。


「きゃあぁぁぁぁっ! えっちっ、へんたいっ、ちかんっ!」


 その夜、かろうじて聞き留めることができたアスカの言葉はそれが最後だった。
 生々しいアスカのピンク色の――えっと、その。
 言葉で詳しく表現してはいけない身体的部位を、しゃがんだ位置から見上げるようにして間近で目撃してしまった僕は、激しく鼻血を吹き出してしまい、更には追い打ちを掛けるようにアスカの平手打ちの連打。

 そんな平手打ちの連打を浴びている最中、ぷるんぷるんと大きく上下左右に揺れるアスカの綺麗な二つの――はうっ。

 その光景を目の当たりにしながら、僕の意識はそこで途切れてしまったのだった。








 翌朝――僅かな頭痛を感じつつも目覚めた僕は、右腕が痺れてしまって動かないことに気がついた。
 そしてその理由もすぐに理解できた。

 ベッドで眠っていた僕のすぐ傍で――僕の右腕を枕代わりにして、すやすやと心地良さそうに眠っているアスカの姿が目に留まったからだ。

 しかも――お互いに生まれたままの姿で。

 その状況を把握した途端、僕は反射的に飛び退こうとしたのだけれど――あまりにもアスカが幸せそうに眠っていたし。
 付け加えるなら、彼女の両足は僕の右足に絡められていて、そもそもすぐに身動きできる状態では無かったのだった。

 昨夜、あの後、浴室で倒れた僕を、アスカは抱きかかえてここまで運んだのだろうか。
 ――って、それ以外に考えられる選択肢なんてある筈もなくて。

 その光景を思い浮かべると、あまりにも恥ずかしく、僕は自分でも判るぐらい顔を真っ赤に染め上げてしまったのだった。

 それでも今はどうする事も出来なくて。
 そう、どんなに恥ずかしくても、彼女が起きてくれるまでは身動きひとつ出来ないのだから。

 それなら、その天使のようなアスカの寝顔をずっと見つめていようと――そう考えた僕だった。

 目が覚めたなら、開口一番、アスカは何と言うだろうか。
 その彼女の言葉を色々と想像しつつも、それに対して答える僕の言葉はもう決まっていた。


「好きだよ――アスカ」


 彼女が目を覚ましたなら、僕はそう告げるつもりだ。


 すると、そんな僕の独り言が引き金になったのか。
 それとも何か夢を見ているのか、アスカはこんな寝言を口にしたんだ。


「碇シンジっ、覚悟してなさい。
 ――今度はアンタが溶ける番になるんだからね」


 アスカってば、どんな夢を見ているのだろう。
 でも、これだけは知っていて欲しい。

 僕は君のせいで、とっくに溶けてしまっているんだよ。


 “メルト 溶けてしまいそう――”


 あの曲のフレーズが脳裏を過ぎる。
 恋に溶けてしまった僕だけれど、こんなに幸せな気持ちに浸れるのだからそう悪くはないと思う。

 アスカも同じ気持ちでいてくれたなら嬉しいなぁ――と。
 未だ起きてくれない彼女の寝顔を静かに見つめながら、しみじみと僕はそう思ったのだった。





- おわり -




 どうにか3年続けてシンジの誕生日記念のSSを更新することが出来ました。
 さて――本作品は、前作同様、各VOCALOIDによる多くの作品群の中でも、個人的にお気に入りの曲のひとつであります「メルト」をイメージしながら創作致しました。
 ご存知でない方は、こちらで視聴できますので、ぜひ一度、お聴きになって下さいませ。



[Return]