『騎士王の新たな戦い』
〜その5〜

by イイペーコー



 カレンダーの霜月のページを破り取り、師走を迎えた頃の事です。
 最近のシロウはとても多忙と言えましょう。
 そもそも彼は学生であり学業に勤しむ事こそが本分なのですが、高校三年生という位置付けでは、将来に向けて更に専門的かつ高度な知識を得る為に進学を選択する者と、逸早く勤労社会に身を置いて労力を提供し対価を得る為に就職という道を選ぶ者とに分かれるとの事で。

 マスターがどのような道を選択しようとも、常に付き従っていく事を誓ったこの身ではありますが、やはりシロウの進路については私としてもかなり気になる所だったのです。

 尋ねようか、それとも静かに見守るべきなのか――と思い悩んでいた私の胸の内を察してくれたのでしょう。
 先日、「受かるまでは誰にも言うなよ」――と、前置きした上でシロウは話してくれたのです。


「セイバー、俺さ、警察官になりたいと思っているんだ」


 どこか照れたような――そう、少年のようなはにかみを覗かせながら、シロウは目指している進路を語ってくれました。

 大学に進学し、勉学を重ねて高い知識を学び警察庁採用の国家公務員を目指すのではなく、地域に密着した派出所に勤務する警察官になりたい――と。
「もともと、国家公務員なんて目指せるような頭じゃないから選択の余地はないんだけどな」――と口にしていましたが、それはたぶんに謙遜も含まれている事でしょう。

 大河の話によると、シロウの学力は決して低い方ではなく、特に理数系を得意としている上に、幼い頃から切嗣に鍛えられていたお陰か英語も不得手ではないとの話で、真っ当に勉学に集中すれば、公立の大学にも合格出来る実力はあるという事です。
 勿論、大学に合格出来る力があるからと言って、シロウが口にしていた国家公務員になれるという訳ではありませんが、元よりシロウは努力をする事に対して、労力を惜しんだり、怠惰な姿勢を見せたりする事など性格上ありえません。
 大学に進学し、一心不乱に勉学に励めば、決して不可能ではない選択肢なのだと思いますが――。


「正義の味方になる――という考えを捨てる気はないけどな。
 現実問題として職に就かないと生活できない訳だし、それなら少しでも人助けが出来る仕事がしたいと思ってさ」


 そう言って、シロウは穏やかな笑みを浮かべました。
 そうですね――シロウならば、立派な警察官になれる事でしょう。
 自己犠牲を厭わない点は玉に瑕ですが、誠実ですし、正義感に溢れていますし、とても心優しい人ですから。

 聞けば、密かに一次試験は既に受けていたそうで、それは教養試験と論文について行われて、シロウは見事にその一次試験に合格していると言うのです。
 残る関門は面接、適性検査、体力検査、身体検査からなる二次試験のみとの事で、最近のシロウは、早朝と夜にロードワークの時間を今までにも増して負荷して更なる体力の底上げに余念がありませんし、夜は遅くまで自室の机に向かい、面接問答集を参考にして面接時の受け答えのイメージトレーニングを行っているようです。

 自分自身の進路なのですから、頑張るのは当然の事なのかもしれません。
 けれど、シロウはとても重い十字架を背負って生きてきました。
 そんな彼が、前向きな展望を自発的に示してくれている事に、どんなにか安堵した気持ちになりましたし、喜ばしい事だとしみじみと感じました。

 そして――警察官になりたいというその希望の進路について、誰よりも早く私に教えてくれた事に、胸が熱くなるような思いに浸る事が出来たのです。

 寒さが一入厳しいものに感じるようになったある日の――静かな夜に。
 密やかにシロウとそんなお話をして、彼と共に、私もこの冬木の地にずっと根付いていく事になるのだろう――と心から安堵の思いを浮かべた訳なのですが――。


 シロウと私の慎ましくとも、心温かく感じる事の出来る明るい未来の展望について、大きな障害となりうるのかもしれない魔術師2人が立ち塞がってきたのです。



「ねえ、士郎――あなたの希望は衛宮切嗣おとうさまの意志を継いで立派な魔術師になる事でしょ?
 それなら、私と一緒に倫敦で専門的に魔術を学ぶべきよ」


「シェロ、その通りですわ。
 あらゆる点において、ミス・トオサカと同じ意見になる事など全く想定すらしておりませんでしたが、その一点に限って言えば心から同感ですわ。
 魔術の道を極めるならば、その選択肢は時計塔以外にありえません事よ」


 それはある日の夜の事でした。
 夕食を終えるや否や、今夜は用事があって大河が不在であるのをいい事に、凛とエーデルフェルト嬢の2人は、シロウの進路について好き勝手に持論を展開し始めています。

 そのエーデルフェルト嬢ですが、まるで図ったようにこの冬木の地には予め屋敷を二箇所も有していたとの事で。
 その内のひとつ、遠坂家の屋敷に程近い方の洋館を改装し、そこを拠点として我が家へ訪れるようになっているのです。

 あの突然の来訪以来、毎朝、毎晩欠かす事無く我が家を訪れて、さも当然のような顔をしながら食卓についているエーデルフェルト嬢の厚顔ぶりは如何なものかと思っているのですが、その事に対して何も注文をつけないシロウにも大変困ったものです。
『食事は大人数で食べた方が美味しいものだし、まあ、いいじゃないか』――の一言で済ませてしまいました。
 日頃から御人好しだとは思っていましたが、ここまで門戸が広すぎるのは考えものです。
 我がマスターとはいえ、頃合いを見て注意をしておいた方が宜しいでしょうね。

 凛の話では、エーデルフェルト嬢は大の日本嫌いであったそうで。
 彼女がどのような経緯でこの倭の国を嫌うようになったのか存じませんが、それならば一生嫌いなままで居て欲しかったと思う次第です。
 まして彼女は北欧ではかなりの上流階級の名家の子女という事で、そのような御仁が、純和風の一般家庭に足繁く通い、炬燵に足を入れて寛いでいる有様はいささか不釣合いのようにすら感じます。

 そのように感じたままの印象を以前シロウに伝えた所、「そんな事を言ったらセイバーも同じ――いや、それ以上に不釣合いだろ。なんせ名立たるグレートブリテンの王様なんだからさ」――と、笑われてしまいました。

 そんな余談はともかくも。
 企てていた謀を段々と露にし始めた2人は、急な下り坂でブレーキを踏み外してしまったトラックのように手の付けられない状態で自らの主張を続けています。


「ええ勿論、留学中の住居については何の心配もありませんわ。
 わたくしが手配しました屋敷内に、ミスタ・エミヤ専用の部屋と工房を既に準備しておりますから」


「ちょっと、ルヴィア、アンタなに勝手なコトを言ってんの!
 士郎の師匠は私なの!
 師匠と弟子が住居を共にするのは当たり前じゃないのよ!」


 頭痛がするのは気のせいでしょうか――思わず、こめかみの辺りを手で押さえてしまいます。
 そもそも英霊であるこの身が体調を崩す事など有り得ない筈なのですが。

 シロウの恋人である私の面前で、彼に対して同居話を勧めようとしている凛とエーデルフェルト嬢の2人に対して、本来は激怒すべき所なのでしょうが――怒りを通り越えて、少々呆れています。

 もっとも、私がこんな風に落ち着いて身構えている事が出来るのは、ひとえにシロウ本人が倫敦行きを全く検討していないからなのですが。


「俺の事を心配してくれる2人の気持ちは嬉しいけどさ、俺はこの街を離れる気はないぞ。
 そもそも俺の場合、その道を極めようとしている遠坂やルヴィアゼリッタさんと違って、魔術は手段であって目的じゃないからさ。
 それにさ、こんな風に言ってしまったら、かれこれ1年近く魔術を教えてくれている遠坂に対して申し訳ないとは思うけど、俺自身、魔術師としての素質が全く無い事は判っているつもりだから。
 それでも、この冬木の管理者である遠坂に迷惑が掛からないようにする為に、これからも魔術の基礎だけは、たとえ独学になってもその鍛錬を続けていこうと思っているけどな」


「魔術師としての素質が全く無いですって?――そんな事はありませんわ!
 以前にもお話し致しましたけど、並行世界の倫敦で魔術を学び続けていた約2年後のシェロは、強化と投影について既に一流と呼べる程に上達していたそうですし、構造の解析能力に至っては、多岐に渡って人材の揃っている時計搭の中でも右に出る者が居ないとまで言われているそうですから――」


「ルヴィアゼリッタさん――その事についても、以前に話を聞いた時に答えたと思うけど、それは並行世界の衛宮士郎であって、俺じゃない。
 正直に言えば、そこまで褒めて貰える程の実力を付けた衛宮士郎に対しては、憧れを持たない訳じゃないけど、憧れや夢を語るだけじゃ目標に近付く事はできないからさ。
 俺は“正義の味方”になりたいという目標に対して、自分の出来る範囲でアプローチをしようと考えている。
 今はまだその方法については人に言える段階じゃないが、自分自身の進路ぐらいは人に左右される事なく、自分で決めたいと思っているんだ。
 だから、俺の将来を親身になって心配してくれている2人には申し訳ないけど、その申し出については謹んで辞退させて――」


「諦めないわよ、士郎」

「諦めませんわよ、シェロ」


 普段は水と油のように相反する姿勢を覗かせている凛とエーデルフェルト嬢の2人ですが、ぴったりと息を合わせて、断りの返事をしようとしていたシロウの言葉を遮りました。
 実に困ったものですが、シロウの気持ちは揺るいでいないのですから、とりあえずは安堵して良いのではないでしょうか。

 ずっと黙したまま、成り行きを見守っていた桜とイリヤスフィールも、どこかほっとしている様に思えます。
 やはり桜も、そしてイリヤスフィールも、シロウがこの地に留まり共に生活していく事を望んでいるのでしょう。

 私自身はブリテンの生まれなのですから、彼と共に倫敦に向かう事になったとしても本来ならば歓迎すべき事なのかもしれません。
 しかし、すっかりと冬木の地に馴染み、特にこの家に愛着を持つまでに至った今となっては、叶うものならずっとこの家で暮らして行きたいものです。

 そう――やはり、シロウと出会ったこの場所で。
 シロウが天命を全うするその日まで。
 きっとシロウと一緒ならば、心温まる日々をずっと送る事が出来るでしょう。

 思わず想像してしまいます。
 シロウと――そして私の未来予想図を。

 今でも勿論充分に包容力を有しているシロウですが、きっと将来は心身ともに更に逞しく成長を遂げて、より頼もしく、より懐の広さを感じさせる大人の男性になってくれる事でしょう。
 そして、当然シロウの事ですから、更に料理の腕を上げていて、ますますエプロン姿が似合うようになっている筈です。

 その彼の傍らには常に私が寄り添っていて、愛用の茶碗と箸を手にして朝・昼・晩と至福の一時を堪能できるのでしょうね。
 ああ、なんて充実した未来なのでしょうかっ。

 それに、ひょっとしたら、シロウと私以外にも家族が増えるかもしれません。
 えっと、その――以前の私ならともかく。
 そう今の私は、あくまでも肉体的には、シロウとの愛の結晶を育む事のできる土壌が出来ているのですから。

 シロウと私の子供――ですか。
 ああ、そんな思いを巡らすだけで頬が火照ってしまいます。

 男の子なら、シロウに似て健やかで心優しい性格になる事でしょうね。
 そして成長と共に、父親に負けない程の料理の腕を身に付けてくれるかもしれません。
 努力を惜しまぬシロウの血を色濃く引き継ぐ筈ですから、偉大な父の背中を目標に日々精進を重ねていく事でしょうし、父親であるシロウも息子には決して負けるものかと、更に向上心を高めていく事でしょう。
 互いに切磋琢磨し、料理の腕を競い合う親子の姿を見る事ができるのですね。
 そうなると我が家は更に豊かで深みのある食生活を送る事ができましょう。

 ああ、なんて素晴らしいっ。
 私にとっての“全て遠き理想郷”がそこにあるのだと確信しても良いのではないでしょうかっ。
 実に輝かしい未来予想図です。
 シロウと私の将来の展望に、一点の曇りなしと明言しておきましょう。


 ――む。待って下さい。
 授かる愛の結晶が、必ずしも男の子である保証はありません。

 もしも、女の子だったりしたならば。


『父様、おかわりをお願いします。
 もちろん、大盛りで』

『ま、待ちなさい、サーヤ(仮名)。
 そのおかわりは既に7杯目でしょう?
 この私ですら、まだ6杯目を食べ終えていないと言うのに、ペースが早過ぎます。
 もっと良く噛んで、きちんと味わいながら食するべきですよ』

『母様、焼き餅をやくのはみっともないと思います。
 父様の愛情ごはんが、私に一番注がれている事を妬んではいけません』


 ああ、こうも容易く娘の旺盛な食欲が想像出来てしまうのはいかがなものでしょうか。
 ここはやはり、将来の我が娘に負けぬよう、本腰を入れて食事量の底上げに今から励むべきなのかもしれません。
 ええ、シロウの愛情ごはんが、掛かっているのです。
 負けませんよ、サーヤ(仮名)。

 ――と、拳を握りしめながら、天に誓っていた私なのですが。


「なあ、セイバー。
 なんだか、またあっちの世界に行っていたみたいだけどさ。
 もうそろそろ鍛錬の時間だぞ」


 ――と、少々呆れ顔の様子のシロウの声で我に返りました。
 わ、私は一体どれぐらいの間、物思いに耽っていたのでしょうか?

 気が付くと時計の針は既に9時を過ぎていて、その長針は4から5の辺りへと移りつつ時を刻んでいます。
 そして勿論こんな時刻なのですから、我が家を訪れていた来訪者達も既にそれぞれの帰宅の途についた模様です。


「セイバーさ――最近、自分の世界に入り込んでしまう所とか、だんだん遠坂に似てきたよなぁ」


「そ、そんな事などありませんっ!」


 ええ、そんな事などありえませんとも。
 先の尖った黒い尻尾を時折覗かせて、シロウに“あかいあくま”と呼ばれる程に悪戯好きで我が侭で、傍若無人の振る舞いを見せる彼女に似てきたなんて心外ですっ。
 ええ、不適切な発言には、それ相応の仕打ちを持って臨むべきでありましょう。

 ――という訳で、その夜の鍛錬は、普段よりも一層に精魂込めて相対して差し上げました。
 その鍛錬の途中でシロウが意識を失ってしまう事になってしまったのは言うまでもありません。
 ええ、これも純粋な愛情表現のひとつなのです。
 凛のように感情を露にガントを放ち、シロウに危害を加えるような真似とは一線を画するものであり、断じて彼女に似てきた訳ではありません。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 明くる朝の事です。
 この日も賑やかな面々の揃う朝食の席となり、それでも夕食と異なり学校へ登校するという制約がある以上、凛やエーデルフェルト嬢が必要以上に持論を強引に主張し合う事も無く、弓道部の朝練のある桜は逸早く我が家を後にして、続いて大河がスクーターで出発し――最後にシロウと凛も2人揃って学校へと向かいました。

 仲睦まじく並んで登校していく2人の様子が羨ましくないと言えば嘘になりますし、全く不安が無いと言えば偽りの言葉になってしまいます。
 幾らマスターとはラインが繋がっているとは言っても、学園内で凛や桜が、シロウに対してどのようなアプローチを仕掛けてくるのか、全てを把握する事はできないのですから。

 けれど、それも来年の春までです。
 それどころか進路が決まってしまえば、卒業の日まで、殆ど登校しなくても良いとの事で。
 間近に迫っているシロウの警察官任用の二次試験を恙無く終える事が出来れば、そのような心配も無くなる事でしょう。

 それはさておきまして――。


「ミス・エーデルフェルト。
 貴女は何故帰宅せずに、ここに留まっているのです?」


 そうなのです。
 普段ならばシロウ達が登校した後は、自らの屋敷に戻り、シロウが帰宅する頃合いを見計らって、再び姿を見せるという行動パターンを繰り返していた彼女なのですが、今日に限って朝食の後も穏やかに居間の炬燵で寛いでおり、一向に帰る素振りを覗かせていません。

 そんな彼女と向かい合うように腰を下ろし、正座の姿勢で私も炬燵に膝を入れました。


「ミス・セイバー、つれない事を仰いますのね。
 たまには同じ男性に好意を寄せている者同士、ゆっくりとその想いを語り合う時間があっても宜しいのではなくって?」


「私には貴女に対して話すべき事など何もありません。
 それと――改めてはっきりと明言しておきますが、私はシロウの恋人であり、貴女は淑女らしからぬ振る舞いで横恋慕をしている立場にある事をお忘れなく」


 自分でも理由は分かりませんが、つい彼女が相手だと棘のある口調になってしまいます。
 私の意中の相手に対して横恋慕をしている女性が相手なのですから、仕方の無い所なのかもしれませんが、それでも本来ならもっと穏やかな物腰で接するべきでありましょう。

 シロウもこのように感情的な振る舞いを見せている私を好まないでしょうし、もう少し、意識して心を落ち着かせなければなりません。

 そんな私の胸中を察したのでしょうか。
 エーデルフェルト嬢は、先程の私の辛辣な物言いをまるで耳に届いていなかったかのように聞き流すと、「この炬燵という日本の伝統的な暖房器具は実に良いものですね」と笑みを浮かべながら口を開き、更にこう続けました。


「そう――まるでシェロのような温もりを感じます。
 ゆっくりと身体の奥深くまで浸透していくような暖かさ。
 安心して身を任せる事が出来るような心地良さ。
 でも、その心地良さはある意味では麻薬のようなもの。
 一度ひとたびこの心地良い温もりを味わってしまうと、そこから抜け出す事が出来なくなってしまう。
 どうかしら――貴女もそう思わなくって?」


「――反論はしません。
 ええ、その通りでしょう」


 確かにこの炬燵という暖房器具には、人を魅了する暖かさがあると思います。
 また炬燵に入っていると、外へ出たくなくなるという気持ちにもなるものでしょう。
 また、同様にシロウの傍に居ると満ち足りた気持ちになりますし、僅かな時間でも離れ離れになりたくないという気持ちになります。
 そうですね。そう言う意味ではシロウと炬燵には色々と共通項があると言えるのでしょうね。

 先程と打って変わって穏やかに同意の言葉を返した私に、エーデルフェルト嬢は表情を綻ばせながら――そして何かを思い出そうとするかのように宙を仰ぎ見ながら再び口を開きました。


「正直に申しますとね、わたくし自身もこれ程までに彼に心を奪われてしまうとは考えておりませんでしたの。
 並行世界のわたくし本人から強く背中を後押しされて、忌み嫌っていたこのニッポンの――しかもフユキの地にまで足を踏み入れましたけれど、心のどこかではミスタ・エミヤと会う前に引き返した方が良いとまで考えておりましたわ。

 わたくしが心惹かれたのは、電話越しで声だけしか存じませんが、並行世界のミスタ・エミヤであって、こちらの世界の彼ではなかったのですから。

 寧ろ、向こうの世界のミスタ・エミヤとは異なって、性格が悪かったり、包容力が欠如していたり、シェロならではの温もりを感じる事ができなかったなら、どんなにか安堵して、そのまま身を翻し、この地を後にする事が出来た筈ですわ。
 ですから――あの夜、ミスタ・エミヤと面と向かって話をするまでは、もっと冷静に、そして理性的に振る舞う事が出来るつもりでおりましたのよ。

 けれど――あの夜。
 この屋敷の玄関の前に立ち、呼び鈴を押してから、彼が――シェロが姿を見せる迄の僅かな間に、今まで経験した事のない胸の高鳴りを感じましたの。

 それは初めての恋の予感。
 世間一般の女性ならば、もっと幼い頃に経験しているのでしょう熱病のようなもの。
 魔術師として大成する為にあえて異性との接点を避けて通ってきたわたくしにとっては、恥ずかしいかな免疫の無かったものでしたの。

 そして――扉の向こうから何かしらの彼の声が聞こえてきて、直後にその扉が開かれた途端、わたくしは言葉を失ってしまっていましたわ。

 彼が――シェロが、そこに居る。
 それは、わたくしにとって、向こうの世界のシェロと目の前の少年がぴったりと重なった瞬間でありましたの。

 天に誓ってシェロの容姿に一目惚れをした訳ではない事を申し添えておきますわ。
 確かに彼は凛々しいと思いますし、整った顔立ちをしていると思いますの。
 けれど、どちらかと言えば、シェロは男性として素敵なお方だと言うよりも、幼い印象を与えるような可愛らしさを感じますし。

 それでも見惚れてしまったのは、彼の雰囲気を感じ取ったからですわ。
 どんな邪な力にも屈しない、どんな誘惑にも首を縦に振らない確固たる意志の強さを感じさせるのに、一方では傍に居て守ってあげないといけないと母性本能を激しく擽られるような危うさと脆さを漂わせていて――だからと言って常に守られ続けるような保護対象の人物ではなく、既に何度も死線を乗り越えてきたかのような逞しさも感じさせていて――。
 本当に不思議な人だと思いましたわ。

 そして――それだけなら強く興味をそそられはしても、決して抜け出る事のできない恋に陥る事は無かったと思いますの」


 熱く語り続けたエーデルフェルト嬢なのですが、間を置くように一区切りを開けました。
 それにしても、流石は名立たる魔術師の家柄で生まれ育った令嬢であると言えるのでしょう。
 彼女とシロウが出会ったあの晩――僅かなあの一時の間に、そこまでシロウの人物像を掴んでいたとは。
 経験則から察し得た感覚もあるのでしょうが、人物に対する観察眼についても一流の域に達しているのかもしれません。


「ミス・エーデルフェルト。
 あえて問いましょう。何故、貴女はシロウに対して一方ならぬ程の想いを感じる様になったのでしょう?」


「ミス・セイバー。
 その理由は貴女の方が良く判っておられるのではなくって?
 そして、既にわたくしはこの炬燵の事を評しながら、その理由の一端を先程伝えたつもりですわ」


「炬燵――ですか。 あ――」


「どうやらお判りになって頂けたようですわね。
 あの時、貴女から厳しいご指摘を受けました通り、わたくしは淑女らしからぬ振る舞いでシェロの胸に身を擦り寄せて、甘い抱擁に酔いしれてしまいましたの。

 今にして思えば、僅かながらに悔やんでおりますのよ。
 彼に抱き締められたあの時の温もりを味わっていなかったなら、まだわたくしは引き返す事が出来たのかもしれない――と。

 心から安心して身を任せる事の出来るシェロの胸の中の心地良さを知ってしまった私は、麻薬中毒者となんら変わりはないのかもしれませんわ」


「ルヴィアゼリッタ――」


 思わず共感してしまうように彼女の名をそう口にしていた私でした。
 確かにシロウの温かさは反則的であると言えましょう。
 その温もりを忘れる事が出来ないからこそ、凛も、桜も、イリヤスフィールも、この戦いに身を投じ続けているのでしょう。

 勿論、この私も決して譲る気など毛頭ありませんが、その気持ちは理解できます。


「初めてですのね、わたくしのファーストネームを呼んで下さったのは」


「そう言えば、そうでした。
 もしも気に障ったのなら謝ります」


「いいえ、気に障るなどありえませんことよ。
 出来ましたら今後とも、そのように呼んで頂けたなら幸いですわ」


「では、私の事もセイバーと。
 そのように呼んで下さい」


「かしこまりましたわ。
 ぜひ、そのように――」


 実に人の良さそうな笑顔でそう答えたルヴィアゼリッタの面持ちを見ていますと、うっすらと掛かっていた霧がみるみる内に晴れていくような感じがします。
 正直に言いまして、彼女に対する第一印象は最低に近いものでありましたが――こうやって言葉を交わしていくと、そう悪い人物ではないのだろうと感じ取るようになってきていました。

 不思議なものですね。
 恋敵同士という関係はなんら変わっていないと言うのに、彼女の胸の内を知った途端に、共に難敵であるシロウに相対する戦友同士のような気持ちを抱くようになってしまっています。

 ええ、一番悪いのは、誰彼無しに女性を抱き締める悪癖のあるシロウなのでしょう。
 これからはより一層に目を光らせておく必要がありそうですね。

 ――と、思い浮かべていたその時でした。


「ふふふっ、随分と甘いのですわね、セイバー。
 この程度で懐柔されてしまうようでは、シェロのサーヴァントとしては失格ではなくって?」


「なっ!? 今、なんと言いましたか、ルヴィアゼリッタっ!?」


「甘い――と。そう申し上げましてよ。
 そんなにも隙が多いようでは、シェロのパートナーとしては任せられませんわ。
 ええ、ご安心なさい。
 わたくしがシェロの唯一無二の永遠の伴侶となって、未来永劫に渡り、天命を全うして死が2人を分かつまで彼を守って見せますわ」


「な、何を勝手な事を言っているのですか、ルヴィアゼリッタっ!
 ええ、ほんの一瞬でも、貴女の事を好人物だと感じ取ってしまったのは一生の不覚です。
 ですが、もう騙されません。
 シロウの髪の毛一本に至るまで、貴女の手に触れさせはしませんともっ!」


 繰り返します。
 ええ、シロウのサーヴァントとして仕える身でありながら、なんたる不覚でありましょうか。
 やはり、彼女は――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、決して相容れない敵でありましょう。


「それでは、この辺で失礼しますわ。
 またわたくしの愛するミスタ・エミヤがお帰りになる頃合いを見計らってお邪魔させて頂きますわよ」


「出来れば、そのままその足で湖の国フィンランドへとお帰り頂きたいものですがっ」


 このような時には砂糖を撒くのでしょうか。
 それとも胡椒でしたか。
 東洋ならではの習慣があったように思います。
 ぜひ、この後は実行しておきましょう。

 それはさておき、立ち去っていく彼女を玄関まで追いかけて、射抜くような視線で睨み据えます。
 そんな私に背を向けたまま、僅かに首を振って振り返り、ルヴィアゼリッタは玄関先で立ち止まりました。


「セイバー、貴女が現在におけるシェロの恋人である以上、仲良くする気はありませんけれど、これだけは言っておきましょう。
 わたくしは一言たりとも嘘偽りの類を申しておりませんの。
 シェロに対する想いは勿論の事――彼と出会ってしまった事や抱擁を受けてしまった事を僅かながらも後悔しているという気持ちも本心ですわ。

 けれど、こうしてシェロと出会えた運命に逆らうつもりもありませんの。

 たとえ何年も掛かったとしても、シェロを我がエーデルフェルト家の花婿として迎えて見せますわ」


「望む所ですっ!
 どんな不埒な輩や敵が現れたとしても、私は愛するシロウを守り通して見せます!
 覚悟しておくがいいでしょう、ルヴィアゼリッタっ」


 そうして、強敵である恋敵を見送った後、玄関先にたっぷりと砂糖を撒いておきました。
 これですっかりと清める事が出来た筈です。





 ちなみに――その後暫くして、玄関先に蟻の大群が押し寄せてきて難儀してしまった事は、絶対にシロウにだけは秘密なのです。

 ええ、でもその事も元を正せば、迂闊にもルヴィアゼリッタを抱き締めてしまったシロウが悪いのです。はい。











「ルヴィアゼリッタっ! 何度言ったら判るのですっ、おかわりの茶碗を受け渡す度にシロウの手を握り締めないで頂きたいとっ!」


「あら、セイバー。
 そんな事を言われましても、困ってしまいますわ。
 わたくしは、ただニッポンの食器の扱いに慣れておりませんから、慎重にシェロの手へと渡しているだけなのですもの」


 その日の夕餉の席の事です。
 またしても口論を交し合う彼女と私であったのですが――そんな私達に対して、シロウは目を細めながら口を開きました。


「へえ、セイバーとルヴィアゼリッタさん、いつの間に、そんなに仲良くなったんだ?」


「なっ?! シロウっ、貴方は私達のどこを見て仲が良いと勘違いしているのですかっ!」


 思わず声を荒げてしまいます。
 ええ、たとえ愛するシロウとはいえ、聞き捨てならない言葉ですから。


「え、だって――セイバーもルヴィアゼリッタさんも、互いに名前を呼び捨てにし合っているじゃないか。
 それってほら、友達の証じゃないのか?」


 あうっ――そ、そう言えば、呼び方を元に戻さず、そのままで通してしまっていました。
 いえその、なんとなくですが、このままの方が自然な感じがしているのは確かなのですが――。

 ちらりと思わず彼女の方へと視線を向けて見ました。
 すると、その私の視線をどのように受け止めたのか――ルヴィアゼリッタは意味深な笑みを浮かべつつ、シロウに向かってこう言ったのです。


「シェロ――私はまだニッポンの言葉を完全にマスターした訳ではありませんけれど――もしも、“恋敵”と書いて“とも”と発音する事もあるのなら、貴方の仰る通りでしょう。
 もっとも――玄関先に砂糖を撒くような間抜けな方と、友達になりたいとは思いませんことよ」


「なっ! ルヴィアゼリッタっ!
 なぜ、貴女がその事をっ?!」


「お許しあそばせ。
 今朝も申しました通りに、わたくし、嘘偽りの類を口にする事は出来ない性分なのですわ」


 はい――今更ですが、再確認致しました。
 彼女は私にとって恋敵であると同時に天敵でもあるようです。

 さすがに“天敵”と書いて、“とも”と呼ぶような習慣は、この倭の国には存在していない事でしょう。
 ええ、間違いありませんとも。





- つづく -


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