『七夕の夜の再会』 

by イイペーコー



「そうか――今日は七夕か」


 恋人同士である織姫と彦星が年に一度だけ会う事が許されているというその日。
 今日も今日とて肉体労働のアルバイトに勤しんだ彼――衛宮士郎は、疲労感のみが原因ではない重い足取りを覗かせつつ、既に薄暗い空を眺めながらいつもの帰り路を歩いていた。

 高校を卒業して初めて迎える夏。
 そして、あの――聖杯戦争を終えて迎える二度目の夏。

 あえて言い直すならば――朝日の恩恵で黄金の草原と化したあの荒れた野原で、心から愛した少女との永遠の別離を経てから迎えた二度目の七夕の夜である。


「そう言えば、去年もここで夜空を見上げたんだっけな」


 激闘を極めた聖杯戦争のさなかにあって、僅かなれども安らぎを得たひとときもあった。
 幾つか思い出される出来事の中で、今でも士郎の脳裏にありありと蘇るのは、たった一度ではあったが、新都でセイバーとデートをした事である。
 普段は秘められていた彼女の様々な一面に触れ、心から楽しめたその日の帰り道――互いに譲らぬ主張から大喧嘩をしてしまったこの場所。
 そして、彼女が他に行く宛はないと、彼が迎えに行くまでその場に立ち尽くしていた場所でもあった。

 士郎は思い出深い大橋のほぼ中央の辺りで立ち止まり、欄干に両腕を乗せて身体を預けると、夜空に煌めく天の川を見つめ続けた。


「あれがこと座のヴェガで、こっちがわし座のアルタイル――か。
 天帝の怒りに触れた織姫と彦星だけど、今日この日だけは再会する事が出来る訳だ」


 はたを織る事を忘れ、一方は牛を牽いて田畑を耕す事を忘れたその二人が、心を入れ替えて以前のように各々の仕事に励む事で許された再会の日。
 丁度今頃はかささぎの橋が現れて、愛し合う2人を引き合わせている事だろうか――と、思い浮かべてしまった所で、士郎は思わずかぶりを振った。

 1年前の春の新学期の朝に――今では遠く倫敦の空の下にいる筈の少女――遠坂凛に尋ねられて答えた言葉が脳裏に蘇る。


『――ああ。未練なんて、きっと無い』


 後悔なんてないし、言い残した事も無かった。
 あの別れには、全てがあった――と。

 あの時、そう思い浮かべた事は決して嘘偽りではなかった筈なのに、心に大きな穴が開いている今の自分の気持ちを否定できない。


「情けないな――未練たらたらじゃないか」


 次第に辺りは更に薄暗くなり、その一方で満天の夜空の星たちは輝きを増し始める。
 梅雨空の続いた最近の空模様であったが、今夜だけは恋人達の再会をそっと祝福するかのように夜空には雲ひとつない。

 心から愛した金色の髪の少女のように輝き続ける星々に比べて自身はなんてちっぽけであり、なんとも情けない石ころのような存在なのだろう、と士郎は思わず宙を見上げていた視線を落とし、欄干に乗せていた両腕に額を当てるように俯いてしまう。


「セイバー……やっぱり俺はお前に会いたいのかな。
 このままじゃ、俺は前に進む事が出来ないのかもしれない」


 遠くを目指していれば――いつかは亡き父と同じ道を歩み、自らの思い描く“正義の味方”のあるべき姿に手が届く日が来るだろう、と考えて士郎はこの1年間を過ごしてきた。

 心配する周囲の反対を押し切って進学もせず、だからと言って将来を見据えるような安定した職も求めず、高校を卒業した後、士郎はアルバイトの時間を増やしてひたすらに当座の費用の為の貯蓄に勤しんだ。
 その一方で周囲には内緒で英会話の学校へ通い詰め、語学力の向上に努めた。

 そんな彼の当面の目的は、国際ボランティアに参加する事である。
 それも一般的には敬遠されがちな内戦等で治安状態が著しく低下している地域へと足を踏み入れる事を考えていた。

 魔術師としては三流であり、戦地でのボランティア活動に参加するにしても現在は素人同然のノウハウしか有していない。
 しかし多くの命が奪われたあの大惨事において、奇跡的に救われ――そして生き続ける事を許されたという大きな十字架を背負っている士郎にとって、何もせず安穏とした日々に身を置く事に我慢できる筈もなかったのである。

 加えて――自らの高校卒業をきっかけにして、大河と桜に対して衛宮家へ通う事に制約を設け、以前は毎日のように顔を合わせていた彼女達に対して、距離を置こうとし始めていた。
 いずれこの地を離れ、連絡すら取り辛く、或いは容易に命を失ってしまうかもしれないような異国の地へと向かう身である。
 大河や桜に対して、家族同然の想いを抱いている士郎ではあったが、別れの際に彼女達に必要以上の深い悲しみを与えてはならないと考えて、そのような判断に至ったのであった。

 もうひとりの大切な家族――イリヤスフィールは、彼にとっては幸いな事に、遠坂凛と共に渡英しており、定期的な凛の診察を受けつつも、元気に暮らしているという。
 おそらくは数年後、凛と共に再びこの地に戻ってくる事であろうが、その時に彼女を出迎える事は出来ないだろう、と士郎は思い至っていた。

 たとえ血は繋がっていなくとも妹同然の存在であるイリヤスフィールと再会する機会もなく別れ行く事になるとしても、それは仕方が無い――と。

 自身の進むべき“正義の味方”となる道筋に一歩でも早く向かいたい。
 ある種、それはどこか大きく歪んでいるとさえ言えよう彼の思考であったのだが――。

 日頃から周囲には決して洩らさずとも、そのように考えている筈なのに、なかなかその一歩を踏み出そうとせずに今日こんにちに至っている。


「ここにはお前との思い出がある。
 こうして目を閉じれば、今だってお前の姿を思い浮かべる事が――」


 誰に向かって告げる訳でもない。
 しかし、そこまで口にしてそのまま口篭ってしまう。


 後悔――なのか。


 その二文字が脳裏に浮かび、思わず士郎は苦笑いを覗かせながらかぶりを振った。

 このままでは益々ここから動けなくなってしまう。
 益々、自身の理想から遠ざかってしまう。

 そして思い浮かぶのは金色の髪の少女の後姿。
 自らの人生を捨てて王を選んだ彼女。
 戦い――その最期が報われない物だと知らされても、なお剣を執り、王の誓いを守った少女――アルトリア。

 そんな崇高な誓いを貫いた彼女に比べて、今の自分はなんて不甲斐ないのだろう――と。


「明日――出発しよう」


 未練を断ち切るように。
 士郎は静かにそう宣言して見せた。

 人として、そして魔術師として、未熟である事は否定しない。
 おそらくは今のままの身で、内戦が続くその地へと赴けば、そう遠くない将来に命を落とす事になってしまうのだろう。
 しかし、いつまでもここで立ち止まっていても、自身の目指す道に近付くとは思えない。

 だからこそ――この七夕の夜を自身の誓いの日と位置付けて、その一歩を踏み出そうと決めた士郎であった。


 その時である。


 それは見間違いであったのか――既に日は落ちているというのに一羽の鳥が、おもてを上げたばかりの士郎の目の前を通り過ぎ、冬木大橋の一方の袂である深山町側の方へと飛んで行ったのであった。


「まさか、今のはカササギ?
 いや、こんな所にかささぎは生息していないし、見間違いだろう」


 そう口にしつつも妙にその鳥の正体が気になったのか、士郎は後を追うようにその場から駆け出して、深山町側の大橋の袂へと向かった。

 脳裏を過ぎったのは七夕の伝説。
 かささぎの橋に誘われ、再会する織姫と彦星の物語。

 そこに“彼女”が居る筈はない。
 幾千幾万の理屈を並べるまでもなく、その事実は変わらないというのに。

 誰かがそこに立っているという予感が働き、それは揺るがない確信のようにさえ感じられた。


 はたして、彼のその予感は的中するのか?
 運命的な再会の場がそこに待っているのか?

 殆ど全速力に近い状態で走り続けている士郎。
 昼間ならばとうに視界に入っている程の距離であろうが、薄暗い夜では目の良い彼でも儘ならない。
 ようやく橋の袂が窺える程に駆け寄った時――はたと足が止まってしまった。


 彼の予感は的中したのか?
 そこにはすらりとした細身の女性が駆け寄ってきた彼の方を向いて佇んでいたのである。

 ちょうど外灯が照らす光から外れるように立っている為に未だその面持ちは窺えないものの、熱の篭った視線を士郎に向けている事は間違いないようだ。

 その熱い視線を感じ取ったのか。
 一旦は立ち止まった士郎であったが、堰を切ったように再び彼女の方へと駆け出した。

 そして――万感の想いを込めるように。
 未練と笑われようが構うものかと言わんばかりに両の手を大きく広げながら――恋して止まない“彼女”の名を口にしたのである。


「セイバぁぁぁっ!」


 そう叫んだ直後。
 彼の耳に飛び込んできた言葉は、士郎の予想の範疇を遥かに逸脱したものであったようだ。


「誰がセイバーだって言うのよっ!」


 正確には、その言葉よりも早く痛烈なガンドの一撃を身に受け、士郎は張り詰めた弓のようにその身を捩じらせた。
 その痛みを昔懐かしい――と感じる余裕も無い。
 まさに乾坤一擲と言えよう彼女の黄金の右フックがうなりをあげて宙を切り、士郎に星の世界を見せつけたのであった。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 気を失っていた士郎がようやく目を覚ましたのは、それから10分もの時間を要してからの事である。

 その間、ずっと彼女――遠坂凛は、秘めていた自身の想いを覗かせるように士郎の頭を自らの膝に乗せ、優しく彼の髪や頬を撫でていたのであるが、その様子を目撃していたのは、空に浮かんだ月と満天の星々だけであったようだ。

 そんな先程までの恋する乙女のような仕草はどこに消え去ってしまったのやら。
 大橋の傍の公園のベンチに腰掛けた士郎の目の前で、凍てつくような視線を彼に向けながら仁王立ちして見せる凛であった。


「それにしても、いくら久しぶりとはいえ他の女の子と間違えられるとはね。
 全く、失礼しちゃうわ」


 かつての彼女のチャームポイントのひとつであったツインテールの黒髪は、結われる事無くストレートに腰に届かんばかりに嫋やかに覗かせている。
 そのような大きな変化があったとしても、他人と間違えてしまった事は簡単に許されるものではないだろうと、深々とこうべを垂れる士郎であった。


「うっ、本当にすまない。
 この通りだ、許して欲しい」


 鈍感で無愛想なれど、実直で隠し事の無い性格は以前のまま変わっていない彼の様子を目の当たりにして、思わず目を細めた凛であったが、すぐにその面持ちを引き締めると、意識して厳しい口調でこう告げたのであった。


「相変わらず甘いわね、衛宮くん。
 謝ってコトが済むならインターポールの某警部さんもいらなくなるわよ」


「はぁ、その言い回しは良く判らんが、それなら俺はどうすればいいんだ?」


「そうね――いたいけな乙女のハートを深く傷つけた衛宮くんには、それ相応の罰が必要よね」


 誰が“いたいけな乙女”なのかは、この際深く考察してはならぬと言う事であろう。
 かつて彼女に憧れていた時期は既に忘却の彼方である。
 聖杯戦争の最中に遠坂凛の本性を知ってからは、気心が知れた戦友であると共に、衛宮士郎的には決して怒らせてはならない存在という印象も深く根付いている。
 黙して語らず、大人しく判決を待つ被告人の心境で身構える士郎であった。

 そんな彼の様子をどう受け取ったのか――凛は僅かに視線を逸らし、頬を赤く染めた後、ここからが肝心要の本番であると言わんばかりに、両の手の拳をぎゅっと強く握り締め、再び視線を士郎に向け直すと、意を決したように口を開いた。


「士郎――罰として、向こう3年間、私の使い魔になる事を命じるわ」


「はぁ? 俺が、遠坂の使い魔?
 それって、つまりは召使いサーヴァントになれという事なのか?」


 その彼の口調と表情からは明らかに困惑の念が窺える。
 否という彼の返事を受ける前に先手を打たなくてはならないとばかりに、凛は更に一歩、士郎の方へとにじり寄り、自身の右手の人差し指を士郎の鼻先の辺りに突き出して、二の句を継げさせないようにプレッシャーを与えながら口を開いた。


「勿論、無報酬とは言わないわ!
 その3年の間は、以前のように魔術の指導をしてあげるわよ。
 基礎だけでなく、より実践的な部分まで踏み込んで、必ず貴方を一人前の魔術師にして見せるわ。
 “正義の味方”を目指す士郎にとって、決して損にはならない3年間になると思うの!
 ねぇ、それならいいでしょ?!」


 息もつかず機関銃のように主張を繰り出した凛であったが、何とも困ったような士郎の面持ちが変わる事は無かった。


「そうか、使い魔云々というのは口実で、要は未熟な俺の為に一肌脱いでくれると言う事なんだな。
 遠坂――その気持ちはありがたいけどさ、俺は誰の世話にもなる気はないぞ。
 そもそも遠坂は、魔術師として大成して魔術の道を極め、由緒ある遠坂家の血筋を守りつつ、更には冬木市の霊地を管理していくという大切な目的がある訳なんだし、俺みたいな半端者に関わっている余裕はない筈だろ。
 だから――」


「だから、何よっ!
 だから、このまま世界のどこかに旅立って、あっさり命を落としても構わないとでも言うの?!
 そんな事をたとえ世界中が容認したとしても、この遠坂凛だけは認めないわ!」


 誰にも告げてなかった彼の進もうとしていた道を何故に凛が把握していたのか。
 国際ポランティア等の資料を士郎が自宅に持ち帰った際に、それを桜が目に留めて、悩んだ末に倫敦に居る凛へと相談をしたという経緯なのかもしれない。
 そして――それは普通のボランティア活動ではなく、自己犠牲という歪んだ性格の持ち主である士郎が安全な国や地域を選ぶとは思えなかったのだろう。


「遠坂、俺は自分の信念に沿って進みたいんだ。
 たとえ、未熟さゆえに満足な結果を出せずに終る事になるとしても、“正義の味方”になるという道を捨てる気はない」


 頑な士郎の性格は百も承知している凛である。
 許せなくも、彼がそのような返事をするであろうという事も想定の範囲内であった。

 そして――どんなに自分自身が彼の事を密かに想い続けているからといって、彼が今でも金色の髪の少女ただひとりを愛し続けているという現実から逃げる気もなければ、また彼のその想いを否定する気もない。

 彼の思い人ではない自分がはたして説得できるのかどうか。
 僅かな躊躇いを覗かせつつも、すぐに面持ちを引き締めて言葉を返す凛であった。


「士郎、勘違いしないで頂戴。
 私は貴方が目指している“正義の味方”になるという道を引き留める気はないわ。
 ただ、今の士郎の無力に等しい状態で世界に飛び出して、簡単に犬死にする事だけは許さないと言っているだけよ。

 冬木市の管理者として、そして共に聖杯戦争を戦ったマスターのひとりとして、第五回聖杯戦争における勝利者の衛宮士郎が、相応の武勇を残すことも無く、名もない雑草のように散らされてしまう事を見逃す訳にはいかないの。

 だからね、士郎――悪い事は言わないわ。
 私の下で3年間、辛抱しなさい。
 “正義の味方”になるのは、それからでも遅くはないでしょ?」


 それは士郎にとって決して悪い話ではあるまい。むしろ魅力的な提案である。
 彼とて、多くの人達を救いたいという強い気持ちがあり、その為には確固たる“強さ”が必要であろう。

 しかし――それでもなお、士郎は容易に首を縦に振ろうとはしない。


「遠坂――その提案は一方的に俺ばかりが恩恵を受ける事になってしまうぞ。
 魔術師の基本は等価交換なんだろ?
 俺は魔術を教えて貰っても、その同じ価値の分だけ遠坂にお礼をする事なんて出来はしないさ。
 そう――たとえ召使いサーヴァントとして、3年間、遠坂の身の回りの世話をしたとしても、その対価に程遠い事は間違いない」


 振り返れば、彼のサーヴァントであったセイバーも筋金入りの頑固者であった。
 やはりマスターとサーヴァントは似るものなのであろうか。


(損な役が回ってくる辺り、私とアーチャーも良く似ているのかもしれないわね)


 赤き弓兵が彼女のその主張を耳にしたならば、黙したまま冷ややかに笑みを浮かべつつ首を左右に振る事だろう。

 ともかくも、今の彼女は孤立無援である。
 背中を預け合った赤い外套の騎士は勿論の事、衛宮士郎の剣となり盾となり、共に戦った騎士王の彼女もまた、今の遠坂凛を――そして今の衛宮士郎を救ってくれはしない。

 難敵、衛宮士郎の頑な姿勢を軟化させる事ができるのは、自分自身しか居ないのだ――と、胸の中でそっと誓う。

 凛は士郎に気付かれないようにひとつ深呼吸をついて、最後の手段のその“言葉”を思い浮かべた。
 あらかじめ用意していた言葉とはいえ、今から告げるその提案はハイティーンの乙女としてはあまりにも恥ずかしいものであった。

 頬が一層に紅潮していく有様をひしひしと感じつつ、それでもしっかりと伝えようと呼吸を整え、心を落ち着かせて。
 ゆっくりと凛は口を開いた。


「心配しないで――士郎に言われるまでもなく、等価交換として必要な対価はきちんと要求するつもりだから。
 いい? 一度しか言わないから、きちんと落ち着いて聞きなさい。

 遠坂凛が衛宮士郎に求めるその対価は――」





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





「――で、この子がその等価交換に要求して得たシロウからの対価という訳ね。
 そんな約束が今から5年も前にシロウとリンの間で交わされていたなんて知らなかったわ」


「でも、ちょっとずるいです、姉さん。
 私はそこまで先輩の事をお願いするつもりはなかったのに」


 満天の星空の下、衛宮家に集った乙女達。
 それぞれに縁側に腰掛けて寛いでいる彼女達のその名は――イリヤスフィール・フォン・アインツベルン、間桐桜、そして――遠坂凛。
 見た目には少女のままのイリヤスフィールは別として、凛と桜の2人は既に少女ではなく、大人の女性の領域に踏み入っている事を証明するかのように、艶やかな麗しさをその容姿だけでなく、仕草のひとつひとつから漂わせていると言えよう。

 更に言えば、遠坂凛はその年齢だけでなく、大人の女性となっている証をもうひとつ有していた。


「でも苦労したのよー。
 嫌っていうほど知っているとは思うけど、士郎ってば筋金入りの頑固者だし。
 セイバーの時はあっさり合意したクセに、倫敦に渡ってから同じ寝室で夜を共にするまで2年ぐらい掛かったんだから」


 不満気にそう洩らしつつも凛の面持ちには柔らかな笑みが浮かんでいる。
 その彼女の穏やかな視線の先には、自身の膝の上ですやすやと眠っている幼い我が子の姿があった。

 年の頃は今夜でちょうど2才になったばかりである。
 小さなその手は、ひしと母である凛の服の裾を握り締め、ここが自分の居場所であると主張しているように思える。

 その幼子の名前は遠坂夕子。
 七夕の夜に生まれ、その名が付けられたという話である。


「5年前のあの七夕の夜――私はこんな風にあいつに言ってやったの。
 “魔術師としての遠坂の家系を絶やさない為に、子作りの協力をしなさい――それが等価交換として必要な対価よ”――ってね。
 あの時の士郎の顔は今でも忘れられないわ。
 嫁入り前の娘がそんな事を簡単に言うものじゃないとかなんとか、顔を真っ赤にして怒ったりしてさ」


 安らかな寝息を漏らす我が子の髪を優しく撫でながら、そう呟く凛の様子を眩しそうに見つめながら、僅かな嫉妬心を浮かべつつも、心温まる思いもまた感じている桜であった。

 姉も、そして自分自身も、母の愛情には無縁の人生を送ってきた。
 せめて――自らの思い人と心優しい姉の血を引くこの幼い少女だけは、決して淋しい思いをさせてはならない――と、胸の内で密かに誓ったのである。


「姉さん――本当は、遠坂家の跡継ぎとか二の次だったんでしょ?」


 そう口にした桜の意図に気付いたのだろう。
 イリヤスフィールは凛が何かしらの言葉を返す前に口を挟んだ。


「同感よ、サクラ。
 ずる賢いリンだけど、一流の魔術師としては失格になってしまうぐらい優しい部分がある事を私も知っているから。

 この子は、言ってみればシロウと私達を繋ぐかささぎの橋のようなもの。
 無鉄砲に世界中を飛び回っていても、この子がいるからシロウは必ずここに帰ってくるんだもの。

 トオサカリンは、エミヤシロウがこの家の事を――そして私達の事を忘れないようにする為に、そしてなんと言っても、シロウが自分の命を粗末にしないようにする為に、大切な絆を身篭った――という訳よね」


 にやりと小悪魔の微笑みと共に、意味ありげな視線をイリヤスフィールから向けられ、思わず凛は目線を外して、頬を赤く染めてしまう。


「もう、勝手に想像していなさい。
 それにしても、士郎を迎えに行っている藤村先生――随分と遅いわね。
 そもそも士郎あいつも帰ってくるなら、もう少し早く帰ってくればいいのに。
 娘の誕生日のお祝いに間に合わなかったら、今度こそは承知しないんだから」


「うふふ、承知しないって、ひょっとして離縁ですか?
 それなら安心して下さい、姉さんに捨てられた先輩の事は、この間桐桜が責任を持って引き取って差し上げますから!」


「なに言ってるのよ、サクラ。
 世の中には順番というものがあって、まずはシロウの妹であるこの私が先に決まっているでしょ!」


「こら、そこの2人っ、不穏当な発言で大騒ぎをしないの!
 ほら、あんまり大声をあげるとユウが起きちゃうでしょ」


 その七夕の日の夜――古くからの歴史を感じさせる武家の風韻を踏襲していると思しき純和風的なその一軒の屋敷からは、乙女達の笑い声が絶えず洩れ聞こえていた。

 そしてもうじきこの家の主が帰宅すれば、より一層に騒々しく――そして楽しげな声があがる事だろう。


 見上げれば――空を流れる天の川でも、かささぎの橋の上で織姫と彦星が再会を果たしているのかもしれない。





- おわり -


[Return]