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 緑萌ゆる新緑の候もあと僅か――暦が変わり水無月となれば、ここ冬木市にも長雨の時期が到来する事だろう。
 柔らかな春の陽光が次第に厚い雨雲に遮られ、六月の陰暦の意味と同様に田圃に水が張られるようになれば、夏の訪れの前のほんの僅かな一時に過ぎないものの、体感的にはやや肌寒い気候に移りゆき、更にはじめじめと湿度の高い梅雨の時期が訪れるものであろう。

 しかしながら、春は恋の季節であって。
 言い換えれば、恋人同士にとっては四季の移ろいなど無縁であり、常春フィールド展開中と化してしまう次第である。

 特に付き合い始めて3ヵ月という頃合いの恋人同士であれば、辣韭らっきょうが転がっただけでも笑顔が零れ、たわい無い話であったとしても会話が弾み、2人だけのひとときであれば、例え何時間が経過したとしても体感的にはあっという間に感じるものであり、また短い時間でも離れ離れになれば、互いに相手の事が気になってしまい、勉学や仕事に多大な影響が出てしまうものであろう。

 あくまでも、一般的には――であるが。
 そう、付き合い始めて間もない100組のカップルが存在すれば、その内、99組は前述の通りの行動パターンと思考パターンが当てはまるものだ。

 しかし、ここ冬木市深山町には、その残りの1組に該当してしまう恋人同士が存在してしまっていたのであった。




『遠坂凛の策略』 
(サイト開設3周年記念)

by イイペーコー



 それは5月も終わりに近付いたある日の昼休みの事である。

 文武両道と主張しつつも、衛宮某の親友である某氏が生徒会長に就任する以前は比較的運動部中心に予算が割り当てられていた事を証明するかのように、私立穂群原学園には立派な弓道場が存在している。
 朝早くから夕方も遅くまで活発に部活動が行われているその弓道場も、大会間近でなければ、昼休みに部員達が出入りする事など殆どなく、徒広いその板の間に人影は僅かに2つしか見受けられない。

 もっとも――僅かとは言ったものの、華やかさという観点で見れば、穂群原学園が誇る大輪の花が見事に2つ並んでいると言っても過言ではあるまい。
 その一方は面倒見の良い姉御肌であり、勇壮という言葉が似合いつつも、その実は意外にも甘美で感傷的・夢想的な情緒を好む趣味も併せ持っている美少女、美綴綾子嬢である。
 密かに下級生からはかなりの人気を得ているという。
 もっとも、異性よりも同性から慕われている傾向が強い辺り、実に彼女らしいと言えるのかもしれない。

 もう一方は穂群原学園の生徒ならば彼女を知らぬ者は居ないと断言出来るアイドル的な存在――頭脳明晰にして才色兼備、常に優雅な雰囲気をありありと漂わせているその美少女の名は遠坂凛である。
 ごく一部には、彼女の優等生ぶりが擬態である事が知れ渡っているものの、他の大多数の生徒達からは未だに絶大の人気を誇っており、皆の憧れの対象であった。

 そんな美少女2人が広い弓道場の板の間で向かい合うように腰を下ろし、昼食後の一服とばかりに濃い目の緑茶で喉を潤している。
 本人自身西洋の血が4分の1ほど混ざっており、住まいもまた欧風の洋館であるという凛であったが、最近付き合いだした彼氏の影響が大きいのだろう。
 緑茶に限らず、食生活において純和風の傾向に傾きつつある今日この頃である。

 そして華やか極まりない2人の話題の中心は、どうやらその“彼氏”の事であるようだ。


「ときに――アンタの彼氏の衛宮士郎の事だけど」


「衛宮くんに弓道部へ戻るように頼んでくれ――というのならお断りさせて貰うわ。
 私、彼のマネージャーになるつもりはありませんから」


 そう口にしながらも、そっと胸の内で「奥さんになら喜んでなってあげるつもりだけど」と思い浮かべた為であろう――思わず頬を赤く染めてしまう凛であった。


「いや、その件じゃなくって――ああ、勿論あたしは諦めた訳じゃないぞ。
 なんとかして夏の大会までに衛宮ヤツを口説き落として見せようと思っているさ。
 まあ、ソッチの方はとりあえずさておいて――」


 彼女に限ってそんな事はありえないだろう――と思いつつも、自身の意中の相手の名を出されて、口説き落とす云々という言い回しは決して気持ちの良いものではなかったようだ。
 思わず声を荒げてしまいそうになった自分に苦笑いしつつ、随分と私は俗化してしまった――と、軽い溜め息を漏らす凛であった。


「それでいったい何のお話かしら? 弓道部絡みではない衛宮くんに関する話題が美綴さんにあるなんて、ちょっと意外だけど」


「ふむ――どんな風に尋ねてみるべきなのかな。
 ――って、回りくどい言い方はあたしらしくないか。
 単刀直入に聞くけど、衛宮士郎は本当にアンタの彼氏なのかい?」


 どうやら2人の仲をからかうつもりでは無いらしく、綾子の面持ちは真顔そのものであり、むしろどこか心配している雰囲気すら感じられる。
 そんな彼女の発言に思わず冷静さを失って絶句してしまった凛であったのだが――どうにか穏やかではない胸中を抑えつつ口を開いた。


「質問の意図する所が判らないんですけど?!
 鈍い私にも判るように説明して下さる?」


「判るようにって、だから、衛宮士郎は遠坂凛の彼氏なのかどうかを尋ねているんだけど。
 ああ、気を悪くしたのなら謝るわ。
 別に遠坂の気分を害しようとか、そんなつもりはさらさら無いの。
 ただね、こうもあちこちから妙な噂が聞こえてくるとさ――遠坂凛の数少ない友人を自負しているあたしとしては、放っておけないと考えた次第さ」


「な、なに、その噂って?!
 まさか、士郎が浮気しているとか?!」


 どうも士郎の事が絡むと“どんな時でも余裕を持って優雅たれ”という家訓を失念してしまうケースが右肩上がりに増加中である。
 この分では上手に猫を被って偽装している優等生ぶりが公衆の面前で本性を露にしてしまう日は、そう遠くない将来なのかもしれない。


「ふーん、“士郎”ねぇ。
 普段はそんな風にファーストネームでアイツの事を呼んでいるワケか。
 こりゃやっぱり噂の方が間違っているのかもしれないな」


「なッ――?!
 と、とにかく、美綴さん、早く話を進めて下さるかしら?」


 努めて平静ぶりを装って見せようとしているのだが――素の姿を一旦覗かせてしまうと、なかなか修正は難しいようで。
 両肩をわなわなと震わせてしまう凛であった。


「それじゃあ、早速その本題に入ろうか。
 さっきも言ったけど、遠坂と衛宮の2人の関係について幾つかの良からぬ噂が流れているみたいでさ、そのひとつは2人の恋人関係は偽装だろうという事なんだと」


「偽装? なにそれ」


 辛うじて声を荒げずに済んだものの、口調は素の彼女のままである。
 またその面持ちたるや怒りを隠しきれず、眉をつり上げて射抜くような鋭い眼光で綾子を見据える凛であった。
 そこらのチンピラ風情が相手ならば、それだけで逃げ出しかねない迫力を滲ませている。
 武芸に秀でた綾子であったからこそ、辛うじて尻込みしないで済んだと言えるのかもしれない。

 しかし、充分過ぎる程に背筋が震える思いを感じたのだろう。
「断っておくが、あたしが言っている訳じゃないんだから」と念押しした上で再び話し始めた綾子であった。


「確かにアンタと衛宮は三年生の新学期が始まって早々に付き合っている事を周囲に知らしめた訳で――まあ、ついでに例の賭けもあたしの敗北で終止符を打ったんだけど、それはまあ置いといて。
 あまりにもその前後のアンタと衛宮の様子が不自然極まりないと感じている奴が多いみたいなのよね。
 元々アンタはこの学園の超有名人だから以前から人目を集めていたし、衛宮もまあ別の意味で有名だったから、まずは遠坂凛と衛宮士郎の接点がどこにあったのかと疑問符を浮かべた奴が多かった所にもってきて、三年生の新学期の初日にカミングアウトという演出がいかにも怪しいと勘繰る奴がそこに加わったらしい。
 つまり、遠坂凛は言い寄ってくる男共の虫除け代わりに、衛宮士郎に恋人役を頼んだのだろう――と。
 幸いに衛宮の方は乙女心に疎い鈍感野郎である上に朴念仁だからそれまでは九分九厘フリーだっただろうし、更に付け加えれば人から何事かを頼まれれば嫌とは言えない性格の持ち主だからさ」


「な、なによそれ――根も葉もない言掛りばかりじゃないの。
 綾子、まさか貴女までそんな噂を信じたという事なの?」


「いや別に噂を鵜呑みにした訳じゃないが――言われてみれば、アンタと衛宮が一緒に居る所を見掛けるのは大抵登下校中ばかりで、その他はごく稀に昼休みに屋上で一緒にいる所を目撃する程度なんだよね。
 街中で――たとえば新都あたりで遠坂と衛宮がデートしている光景を見た奴が居れば、すぐに噂になる筈だろう?
 付き合い始めたばかりの恋人同士ならば、普通は寸暇を惜しんでデートを重ねるものじゃないか。
 それなのにデート中の目撃情報が全く無いという事は、即ち遠坂凛と衛宮士郎は休日には会っていないと多くの連中は結論付けたらしいのよね」


「失礼な事を言わないで貰える?
 そりゃ、デートらしい事はあんまりしていないけど、ちゃんと土日だって会っているんだから……」


 土日どころではない。
 下校した後も足繁く毎晩のように衛宮家へと通い、セイバー共々士郎の家で食事を共にしているし、時にはそのまま彼の家の離れの部屋に泊まっていく事すら珍しくはない程である。
 しかし、いかに相手が綾子であるとはいえ、聞きようによっては爛れた素行であると誤解されてしまう内情を口に出来る筈もなかった。


「ふーん、つまり外には出歩かないけれど、家に篭って2人しっぽりと仲良くしているワケね?
 でも、まだ2人とも学生なんだからさ――子作りに励むのなら、ちゃんと結婚してからの方がいいと思うわよ」


「は、励んでなんかないわよっ!」


 子作り云々は別として、その手の行為を励むつもりがないかと言えば、むしろ積極的に行わなければならない大義名分はあった。
 聖杯戦争終了後もセイバーを使い魔として現界させ続ける為にパートナーである士郎からの魔力供給は必要不可欠であるのだから。

 しかしながら、聖杯戦争中に結ばれた経験を除けば、凛の思惑は大きく外れてしまい――綾子の評する通り乙女心に疎い鈍感ぶりをまざまざと見せつける士郎は、凛がそれとなくアプローチを覗かせても、魔力供給のマの字すらも匂わせる事がなく――結果、2人は至って清らかな関係であったのだった。


「それならいつも休日は2人で何をして過ごしているのさ?
 若い恋人同士がいつもいつも部屋に篭っているなんて不健康だと思うけど」


「何ってそれは――」


 親しい友人とはいえ一般人である綾子に魔術絡みの事情を伝える事など出来る筈も無い。
 高校卒業後は士郎と共に倫敦へ渡り、時計塔というその道の最高学府にて勉学に努める事になる進路が既に決まっている。
 推薦を受けて特待生待遇での入学が決まっている凛はともかく、彼女と出会うまでは自己流で通してきた士郎にとっては魔術の基本から学ばなくてはならない部分が多い上に語学の問題もある。
 故に平日の夜間は元より、休日の大半は士郎の教育に費やしている今日この頃であったのだ。

 更に言えば、士郎の方は剣の師であるセイバーからの鍛錬の時間も日ごと増している傾向にあって――結果、凛が士郎を連れ立って街中へと出掛ける機会など作れる筈も無かった。

 しかし、そんな事情を綾子に話す訳にはいかず、凛は視線を逸らして口篭ってしまう。
 そんな彼女を目の当たりにして、思わず溜め息を漏らしてしまう綾子であった。


「まあ、その様子だと所詮噂は眉唾物で、どうやら本当に遠坂と衛宮は恋人同士みたいだけど――それなら、もう少しそれらしく振る舞った方がいいと思うぞ」


「放っておいてよ!
 私と士郎――いえ、衛宮くんがどんな付き合いをしていようが、他の人には関係ない訳だし」


 普段の優等生の仮面が時折外れて、素の彼女の言動が見え隠れするその様子を内心喜びながらも、これだけは言っておかねば――と言わんばかりに、綾子は自身の人差し指を凛の鼻先にすっと突きつけて口を開いた。


「甘いわよ、遠坂。これが関係大有り。
 アンタ達の関係が偽装と判断した野郎共は、嬉々として再び遠坂凛の彼氏候補として立候補しようと企んでいるらしいのよね。
 ああ、そんな目で睨まなくても判ってるって。そんな十把一絡げの連中が言い寄ってきたとしてもその場で全部断って見せるから関係ないって言いたいんでしょ?
 でもね、遠坂――息を吹き返してきたのはアンタのファンだけじゃないの。
 アンタは知らなかったかもしれないけれど、ああ見えて衛宮って意外と異性から人気があるのよね。
 愛想はないけど、相手が誰であれ基本的に優しいし、頼みごとを依頼すれば親身になって対応してくれるし――ついでに言えば料理上手だし。
 気は早いけど、将来を見通して結婚相手として考えた場合に衛宮士郎はなかなかの優良物件と判断して間違いないだろう――というのが学園内の女子生徒達の共通認識らしいぞ」


「優良物件って――何よそれ。人の彼氏を新築一戸建て南向きみたいな言い方をして」


 士郎の良さを判る女性は少ないだろうと踏んでいた凛にとって、綾子からのその情報は意外であった。
 単に彼氏が他人から高い評価を受ける事自体は喜ばしい事である。
 しかし、その評価の仕方は明らかに機会があれば士郎を我が物にしてしまおうという魂胆が窺える。
 結果――凛の優等生の仮面は完全に脱げてしまい、みるみる内に不機嫌である旨を示すように眉がつり上がってしまう。


「その様子なら、これ以上は忠告する必要はないだろうけど――このまま放っておけば衛宮に告白しようとする奴は少なからず出てくると思うわよ。
 まあ、アイツの事だから心配する必要は――」


「ええ、心配なんて一切不要よ、美綴さん。
 もしも、私の士郎に手を出そうとする奴がいたら、私自身の手で天誅を加えてあげるまでですから」


「私の士郎って――まぁいいけど」


 アンタ、ちょっとキャラが今までと変わり過ぎじゃないのか――と、指摘したい気持ちをどうにか収めて、むしろここからが本題とばかりに言葉を繋ぐ綾子であった。


「むしろ気をつけるべきなのは、もうひとつの噂の方なのよね。
 そう――遠坂凛の友人としては、こっちの方がむしろ大問題と言うべきかな」


 周囲には彼女達以外に人影はない。
 しかし、それでもなお他人に聞かれては心配であると考えたのか、綾子は板の間の上を膝頭をついて凛の方へとにじり寄り、彼女の耳元に口を寄せて声を潜めた。


「衛宮士郎は二股を掛けている――らしいぞ。
 ほら、そんなに驚くな、引くな、固まるな」


 世に魔法の呪文があるとして、こと遠坂凛に限定すれば、士郎が二股云々という物言いだけでも充分に精神状態を激しく混乱させる呪文となり得たようだ。


“衛宮士郎は商店街で金髪の美少女と頻繁に仲良く買い物をしているらしい”


 その目撃情報は少数であると事で、今の所、その噂はあまり広がっていないようだとのコメントを付け加えた綾子であった。

 士郎が二股を掛けているというその噂の根拠を綾子から聞き終えて、一応はそれが限りなく100%に近い確率で誤解であると頭では納得した凛であったのだが、最近になってようやく自分自身にも持ち合わせている事を把握したばかりの乙女心は、容易にその情報に応と頷く事は出来なかった。


(士郎の奴っ――私とは殆ど出歩いた事なんて無いのにっ)


 金髪の美少女とは間違いなくセイバーの事であろう。
 思わず凛の脳裏に浮かんだのは、互いに頬を赤く染めつつも熱い視線を絡め合い、そして○ャーミーグリーンのCMの如く、仲良く手を繋いで買い物へと向かう新婚夫婦のような雰囲気を漂わせる士郎とセイバーの姿であった。

 結果――その日の午後の授業は、普段の優等生ぶりはどこへやら。
 ガタガタに崩れてしまったと言っても過言ではない有様で、現国の授業中に我此処にあらずといった様子で世界史の教科書を開いていて先生に叱られたり、体育の授業中などは、いつもならば華麗に飛び越す跳箱に躓いて転んだり――と、散々の様子の凛であった。


 こんな日に限って、放課後になると士郎は足早にアルバイト先へと向かってしまい、彼とは一言も話をする事もできず――日がとっぷりと暮れて、士郎がアルバイト先から帰宅するまで悶々とした思いに苛まされてしまった凛である。

 彼女的に言えば溜まっていいのは貯金と知識と魔力量のみであって、鬱屈としたフラストレーションが溜まりに溜まった状態は精神的にも好ましくない状態にあるのは言うまでもない。


「遅いっ」


 ――と、重低音で発せられた遠坂凛の言葉が全てを如実に表しているのかもしれない。

 今にも噴火してしまいそうな状態で何やらオーラのようなものを漂わせつつ、衛宮家の玄関の式台に仁王立ちしたまま家主を待ち続ける彼女マスターの様子を廊下の奥から心配そうに見つめつつ、それでも郷に入っては郷に従えとばかりに、この倭の国の格言通りに従い、触らぬ神に祟りなしと静観の姿勢を覗かせるセイバーであった。


(学校で何があったのかは知りませんが――ええ、おそらくは九分九厘まで、シロウ、貴方のせいなのでしょう。
 貴方の剣となり盾となる事を誓ったこの身ですが、今はこの国の古式ゆかしい伝統文化に従って、ヒューマを陰から見守る姉のアキコのスタンスを取らせて頂きます)


 ――どうやら、最近の彼女のお気に入りには、時代劇物のドラマだけでなく、某スポコンアニメの再放送も含まれているようである。

 雰囲気だけはホシイッテツと化した自身のマスターの背中へと心配そうに視線を向けながら、「大丈夫です――シロウ、卓袱台だけは守ってみせますから」と呟くセイバー。
 どうやら士郎の身は仕方ないと目を瞑っても、夕食の料理の品々だけは守る気があるようだ。

 そんな頃合いであった。
 凛の口からは遅いとの評価が下ったものの、殆どいつもと変わらない時刻で帰宅した士郎が――これから我が身に起こるであろう悲劇を知る由もなく、「さて、今夜は何を作ろうかな…」と呑気に独り言を洩らしながら、玄関の引き戸に手を掛けてゆっくりと開け放ったその瞬間である。


「ただい――」


「遅いぃぃぃっ!!」


 ただいま、と帰宅を告げる挨拶すら言い終える余裕を士郎に与えずに、問答無用で撃ち放った零距離射撃のガンドの一撃。
 聖杯戦争という名の死線の境界を潜り抜けた経験による恩恵か――それを奇跡的に避け切った士郎であったが、凛の二の矢となったコークスリュー気味の右フックは、一瞬ではあるが士郎に再び赤き弓兵の背中を脳裏に浮かべさせた程であった。
 彼の脳裏に浮かんだ弓兵がまだこちらには来るな――と追い返したのかどうか。
 僅かな間、気を失った士郎ではあったが、どうにかすぐに意識を取り戻す事が出来た。

 そして玄関先から居間へと足下をふらつかせながら、セイバーの肩を借りてどうにか辿り着くと、不満の意を示すように口を開く士郎であった。


「おい、遠坂――帰ってくるなり、あの仕打ちはないだろ?
 俺がいったい何をしたと――」


「禁止よ」


 またにしても士郎に皆までしゃべらせずに自らの一言によって遮ってしまう凛であった。

 何故彼女はここまで激怒しているのか――“多分”と頭に付けつつも、何も彼女を怒らせるような真似はしていない筈と首を傾げる士郎。
 そして助けを求めるように視線をセイバーへと向けてみるが、彼女もまた事情は判らないといった様子で首を左右に振って返すのみである。


「ほら、そんな風に言葉を交わさなくても何でも判り合ってます――って仕草も金輪際禁止よ」


「はぁ? それって、たった今、俺とセイバーが目を合わせた事か?」


「凛、今日の貴女は何か勘違いをしているようだ。
 確かに私はシロウの事なら、ある程度は考えている事を察し得る事ができます。
 しかし、それは元々マスターとサーヴァントの関係であった事に起因している為であり、男女の関係の類による感情のものではありません」


 どうやら彼女が気分を害している理由が自身と士郎の関係を誤解しての事だと察したセイバーは、そう口にしたのであるが――ほんの僅かに頬を赤く染めている辺り、100%の勘違いとは言えないのかもしれない。


「そんな事は判っているわよ。そう、決して私は勘違いなんかしていないわ。
 でもね、温厚かつ寛大な私はその主張を信じてあげるとしても、他の多くの目撃者まで納得させる事は不可能に近いのよ」


 遠坂家の辞書における“温厚”だの“寛大”だのという単語の定義の改訂が必要なのかもしれないが、それはさておいて。
 とりあえずは先程の右フックの一撃で、溜まりに溜まっていた鬱憤を吐き出す事が出来たのか、幾分か落ち着いた物腰でぴんと右手の人差し指を立てると、説明口調のまま言葉を繋いだ。


「士郎、あなた最近、セイバーを連れて頻繁に商店街に買い物に行っているでしょ?
 綾子の話によると、その様子をうちの学校の多くの生徒達に何度も目撃されているらしいわ」


 綾子からの情報では、今のところ目撃例は少ないとの事であった筈であるが、凛の脳裏に二人の買い物風景の様子が何度も繰り返し浮かんだ為であろう。
 彼女のイメージ的には既に全校生徒が目撃しているというぐらいに尾ひれが付いてしまっているのかもしれない。


「凛、何を咎めたいのか判りませんが、確かに私はシロウにお願いして、買い物に同行させて頂いています。
 いつもシロウや凛から美味しい手料理を作って頂いてばかりで、私は何も恩返しをする事が出来ない。
 ですから、せめてシロウの買い物の荷物持ちぐらいはお手伝いしようと考えた次第なのですが――それのどこが良くないのでしょう?」


 問い掛けられたのは士郎であったが、自身の行いの為に彼が責められるのは我慢ならなかったようで、士郎が答えるよりも早く口を挟んだセイバーであった。


「そうね――その殊勝な姿勢はむしろ好ましいと思うわ。
 でもね、セイバー……互いの肩が触れ合うぐらいに仲良く寄り添って商店街を歩く二人の様子は、客観的に見れば新婚夫婦そのもののように目に映るみたいよ」


「なっ?! 新婚夫婦などとっ――私は決して、そんなつもりはっ!」


「そうだぞ、遠坂。
 俺とセイバーがそんな風に見られる訳がないじゃないか」


「む。そんなにもあからさまに否定されると決して気持ちの良いものではありませんが、ええ、基本的にはシロウの言う通りです」


 実にあっけらかんとした様子で、未だに凛が怒っている理由を把握出来ていないといった面持ちのまま間髪置かずに答えた士郎を横目で捉えつつ、僅かに不満の意をこめて溜め息を漏らすセイバーであった。


「とにかく、禁止なのっ!
 士郎は私の弟子だし、セイバーは私のサーヴァントでしょ?
 師匠の命令、そしてマスターの命令は絶対なんだからっ!」


 取り付く島がない様子で声を荒げる凛を前に、これは何とも手の打ちようがないと判断したのだろう。
 どちらからともなく、目配せし合って苦笑いを浮かべた士郎とセイバーであったのだが――。


「ほら、そこっ! 言ってる傍から以心伝心するんじゃないっ!」


 泣く子と地頭と――あかいあくまには勝てぬと言うべきか。
 おそらくは彼女自身も理不尽な事を主張していると充分に理解出来ていた事だろう。
 しかし、頭で理解出来ていても、そうは乙女心とんやが卸さない。

 結局――その夜の魔術の講義は、過去最長記録を楽々更新するほどに長時間に渡って行われ、暦が変わってようやく講義が終わった頃には、すっかりと燃え尽きて真っ白になってしまった士郎の姿があったというセイバーの談であった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 明けて翌日。快晴の土曜日である。
 たとえ学校が休みでも士郎の朝は早い。
 今日も近所の一番鶏と競うように早く目覚めた彼であったのだが――士郎の本拠地である台所へと足を踏み入れた所で、彼は信じられないモノを目の当たりにしたのである。


「と、遠坂?!」


 たとえ太陽が西から昇ることがあったとしても、遠坂凛が自分よりも早く起床することなどあり得ないだろう――と、少々失礼な思い込みを有していた士郎の目に留まったのは、彼の愛用のエプロンを身に付けて、台所で甲斐甲斐しく食事の支度をしていた凛の姿であった。

 昨夜、彼女が遠坂邸に戻らず、セイバー共々離れに泊まった事は勿論把握していた士郎であったが、それは今回に限った事ではない。
 聖杯戦争が終わってからも、堅物的な貞操観念を主張する士郎を他所に、凛は何度も衛宮邸に“お泊まり”をしていく事はあったが、自ら朝食の準備に勤しんだ事など皆無であったのだ。


「あら、おはよう、衛宮くん。
 ちょうど良かったわ。今、起こしに行こうかと思っていた所よ」


「起こしに――って、あれ? 今日は何か用事があったんだっけか?」


 もしも、約束を失念していたとするならば、簡単に許してくれる筈の無い彼女である。
 思わずそう口走ってしまった事を後悔しつつ、身を引き気味にしながら、凛の顔色を窺う士郎であった。

 よもや地雷を踏んでしまったのか?――と危惧の念を浮かべていた士郎を他所に、問い掛けられた凛の方はすこぶる上機嫌の様子である。
 バックに大輪の花々を背負っているかのように満面の笑顔を浮かべると、手にしていた菜箸を器用にくるくると回しながら口を開いた。


「勿論、用事ならあるわよ。最優先事項のね。
 ――で、当然のコトだけど、衛宮くんの今日の予定は空いているわよね?」


「え? 俺の今日の予定?
 昨日は夜遅くまで魔術の講義に時間を費やしたから、今日はセイバーに稽古をつけて貰おうかと――」


 言い淀む事無くそこまで口にした士郎であったが、その瞬間、背筋が凍るような恐怖を感じて思わず口篭った。

 衛宮士郎は乙女心に関して言えば究極的に鈍感な男であったが、激戦を極めた聖杯戦争を生き延びた経験も手伝って、自身の生死に関わるような事象に対しては、充分すぎる程に鋭敏になっていたと言えよう。
 その危険予知を知らせるアンテナがバリサン状態で激しく反応を示し、自らの発言を強引に遮ったのである。


「衛宮くん、私、よく聞こえなかったなー。
 もう一度、言ってくれる?」


 笑顔を崩さず、そう問い掛けた凛であったが、目が笑っていない。
 凄みを効かせたその鋭い眼光たるや、獲物を目前に捉えた肉食獣のものかと見間違う程である。
 迂闊な答え方をしようものなら、朝日を拝む事ができずに、虎とブルマっ娘の待つ某道場へと送られてしまう事だろう。


「お、おう、勿論今日の予定は終日フリーだぞ。
 似るなり焼くなり好きにしてくれっ」


 嗚呼、衛宮士郎の未来予想図は目に見えたと言い切っても過言ではない。
 形の良い彼女のお尻に敷かれっぱなしになってしまうのであろう彼が、赤き弓兵の背を追って行く事など出来る筈もあるまい。

 石の上にも三年――もとい、尻の下にも永年という諺を作る事になるのだろう遠坂家の現当主様は、まな板の上に自ら進んでしろうが乗った事を確認して満足したのだろう。
 既に出来上がったお弁当を手にとって彼に見せながら、声を弾ませつつこう言ったのである。


「今日は朝から夕方まで一日かけてデートしましょ。
 ほら、朝ご飯用のお弁当も出来ているし、すぐに出かけるわよ」


「なッ?! で、でーと?
 遠坂と俺が――か?」


「あたりまえでしょ!
 それとも何? 士郎は、私が他の男とデートに行っても構わないとでも言うワケ?」


「いや、それは困るぞ。
 ――ちょっと違うな、困ると言うよりも嫌だ。
 うん、絶対に嫌だな。
 遠坂が他の奴とデートしている光景なんて想像したくもない。
 遠坂の隣は絶対に誰にも渡さないんだからな」


 この少年は、日頃は筋金入りの朴念仁で、気の利いた言葉などなかなか口にしてくれはしない。
 しかし、このように彼女の意表を突いてクリティカルな一撃をごく稀に覗かせてくれる。
 その度に、凛は頬を真っ赤に染め上げて、決して大きくはないが、士郎しか知らぬその美しい胸を高鳴らせてしまうのであった。


「ま、まったくもう、アンタってば、本当にストレートすぎるのよっ。
 そうやって独占欲を見せてくれるのはいいけど、もう少し婉曲的な物の言い方を覚えなさいっ」


 ぷんすかと擬音が聞こえてきそうな様子で怒った仕草を見せつつも、機嫌がすこぶる良い状態であろう事は隠し切れていない。
 気を抜くとすぐに緩んでしまう頬を隠す為なのか、彼に背を向けて言葉を繋ぐ凛であった。


「それで――勿論、デートに付き合ってくれるわよね?」


「そりゃ喜んで付き合うけどさ。
 なんで朝から――しかも今すぐに出かけるんだ?
 まだこの時間だと、どこの店も開いてないと思うぞ」


 士郎が疑問の念を浮かべるのも無理はない。
 時計の短針はようやく“6”の文字に差し掛かった所である。
 一般的なデートの在り方など詳しくは判らない彼ではあったが、まさにこの不意を突く展開は、デートと言うよりも朝駆けという雰囲気ではないかと思い浮かべてしまい苦笑してしまう士郎であった。


「いいのよ、まずは新都の海浜公園で朝食にしましょ。
 その後はゆっくりと散歩とかショッピングしたりして――」


「散歩と買い物か――それもまあいいけど、どうせならついでに映画を観に行かないか?
 ちょうど楽しみにしていた映画が先週から始まった所でさ」


 急な提案であり、何も準備していなかった士郎であったが、思えば凛とのデートは聖杯戦争の最中に出かけて以来、ようやく2度目となる訳である。
 一応は“彼氏”として“彼女”をきちんとエスコートしたいという意欲が高まっていく。
 映画を観て、その後どこかで昼食を摂った後に買い物でも――と、頭の中でシミュレーションをしていったのであるが、そんな彼の思考を遮るように声を荒げる凛であった。


「なに言ってるのよ、士郎っ! 映画館なんか行っても、暗くて顔なんか判らないでしょ!」


「はぁ? 暗くて顔が判らないって――なんでさ?
 周囲が暗くなったってスクリーンは明るいんだから問題ないぞ」


「だって、それじゃ意味がないって言うか――えっと。
 あんもうっ、いいから士郎は黙って私の後を付いてくればいいのっ!」


 こうなると取り付く島がなくなってしまう。
 とにかく、触らぬ神に祟りなし――である。
 いや、神と言うより“あくま”であるが、こういう状態の彼女に対しては反論しない方が身の為だという事を、聖杯戦争を境にして、否応無く理解させられてきた士郎であった。

 かつて憧れの存在だった頃の清楚な美少女の面影を最近はすっかりと思い出すことが出来なくなっている。


(まあ、昔の猫を被っていた頃よりも、こっちの遠坂の方が断然いいのは間違いないんだけどな)


 苦笑いを浮かべつつも、頬を緩めてしまう士郎である。
 おそらくは、遠坂凛の尽力によって、彼はハッピーな未来に向かって進んでいるのであろう。


「ほらッ、そこっ。 なにをニヤニヤしてんのよっ!
 さっさと顔を洗って着替えてきなさいっ!」


 口より手が早い。
 そして、手も早いけれど、足も早い。
 絶対領域のスカートの内側が露になってしまいそうな程に片足をあげ、士郎の背中を蹴りつけて、彼をせかす凛であった。


 さて――目的がしっかりと定まると、本質的な相性の良さを証明するように呼吸を合わせて、てきぱきと作業が出来る二人である。
 既に御手掛け用の弁当は凛の手製により出来ている。
 士郎は素早く身支度を整えると、凛を手伝ってセイバー用の朝食と昼食を準備した。
 彼女に留守番役を押し付ける格好となり、申し訳ないという気持ちも働いたのだろう。
 用意されたセイバー用の朝食と昼食の量は、見るからに数人前分と言っても過言ではない程に料理の品々がテーブルの上を所狭しとばかりに並んでいる。

 出掛けの際、見送りの為に玄関へと姿を見せたセイバーにその事を伝えると、思わずこの世の春とばかりに満面の笑みを浮かべてしまい――その後きりりと表情を引き締めて、「私は決して食いしん坊という訳ではありませんから!」と主張を覗かせた彼女であったが、無論説得力は限りなくゼロに等しいものであった。


 閑話休題。
 見ようによっては、朝帰りのカップルという趣を感じさせる時間帯に出掛けた二人である。
 バスは辛うじて走っている時間帯ではあったが、凛の提案によって新都までは歩いて向かう行程となった。

 冬場であればまだ薄暗い時間帯であろうが、5月も下旬を迎えたこの時期ならば、既に充分に明るい頃合いである。
 しかし、休日の早朝という事もあってか行き交う人の数は極端に少なく、新都へと向かう大橋を二人仲良く並んでいく凛と士郎であったが、数分前に犬の散歩をしていた初老の男性を除けば、辺りには彼等以外に人影を見つける事は出来なかった。

 とはいえ、恋人同士――それも付き合い始めてまだ日が浅い二人なのであるから、周囲に人の目があろうと無かろうと関係はない筈である。
 事実、“鈍感”“朴念仁”と日頃凛から散々に言われ続けている士郎であるが、こうして意中の彼女と連れ立って歩いていく事に殊の外喜びを感じているようで、周囲の様子などすっかり眼中に入っている様子もなく、すっかりと目尻を下げて凛の横顔を見つめつつ歩いていたのであった。

 そんな時である。
 ふと、何かを思い出したかのように、宙を見上げて「ああっ、忘れてたっ!」と声を上げた凛。
 その声に驚く士郎を他所に、半ば強盗犯でも取り押さえるかのような勢いで、彼の腕を自身の両の手で捕らえると、そのまま身を摺り寄せるように腕を絡める凛であった。


「どこに人の目があるかもしれないものね。
 うん、気を抜かずに、ちゃんと腕を組んでないと」


 唐突過ぎる彼女からのアプローチに戸惑い、自身の二の腕辺りに押し付けられている彼女の柔らかな膨らみに頬を赤く染め上げつつも、士郎はその彼女の物言いを聞き逃さなかった。

 思い出されるのは二年生の三学期頃の事である。
 当時、彼女は三年生になるまでは、周囲に対して自分達が付き合っている事を隠しておこうと提案したのであった。

 普段大人びた言動を覗かせる凛であるが、士郎と付き合う前は異性との交際経験が皆無であった為か、基本的に色恋めいた事については恥ずかしがり屋の傾向にあった。
 そんな凛の性格を考えれば、先程の彼女の発言は矛盾に満ちていると言ってもいいだろう。


「なあ、遠坂。
 人の目を気にするなら、腕は組まない方がいいんじゃないのか?」


「なによ、士郎。
 私と腕を組みたくないって言うの?」


「いや、そりゃ遠坂とこうして腕組んで歩くなんて男冥利に尽きるとは思うけどさ。
 でも、遠坂はこうやって人前でべたべたするのってあまり好きじゃないだろ?」


 それに腕に当たっているんですけど――小ぶりだけど柔らかいモノが。
 ――と続けようとした士郎であるが、そう口にした途端に、頬を赤く染め上げた彼女の右フックの一撃を浴びてしまう事になるだろう。
 デートからの帰り道ならともかく、行き掛けに気を失う訳にはいかないと、その指摘については、どうにか口にしなかった士郎であった。


「わ、私は別に人前でべたべたするのって嫌いじゃないわよっ!
 だってほら、私達って、こっ、恋人同士なんだし――」


 語尾の方はぼそぼそと口篭ってしまった凛であったが、有言実行とばかりに士郎の腕に絡めているその自身の腕に力を込めて更に密着していく。

 それでもなお先程の凛の発言には首を傾げる部分のあった士郎であるが、可愛い恋人から腕を絡められ身体を密着されて喜ばない男などいる筈も無い。

 多少、歩き辛い面はあったが、彼女にされるがままの状態で歩き続ける士郎であった。

 凛が士郎に対して、必要以上に擦り寄ってきたり、腕を絡めてきたりという仕草を見せるのは、今まで殆どのケースにおいて、衛宮邸の中で――或いは他の場所でも明らかに周囲に他人が居ない状況において、彼をからかう為に――つまりは“あかいあくま”モードの時に限られていた。

 普段の学校生活など人前に出る時においては、優等生としての猫かぶりから逸脱する事なく、士郎と共に行動する登下校時においても品位のある淑やかなレディとして振る舞うように、ある一定の距離を保っていたのだ。
 つまり、腕を組むどころか、人前では手を繋ぐ事すら禁忌のように接し続けてきた彼女なのである。


(遠坂のやつ、今日に限っていったい何を考えているんだろうな)


 昨夜の凛の言動――つまり嫉妬心を露にしていたその様子を推し測れば、ある程度は彼女の心理状態を読み取る事はそう難しくはあるまい。
 10人居れば9人までは――いや、100人居れば99人まで。
 更に言えば今日日の小学生であっても、そんな彼女の可愛い変化の理由を見抜けた事だろう。

 しかし、彼は衛宮士郎――である。

 可愛い後輩さくらが長きに渡って通い妻状態を続けていたと言うのに、異性という存在として認識しなかった筋金入りの鈍感大魔王の彼に、そんな乙女心を解せよという事自体が無理難題であったという事であろう。

 結果――最初の目的地である海浜公園に到着するまで、腕を絡め合い、隙間など全くない程に密着して歩き続けた二人であった。


「全く――なんでこんなに空いているのかしら。
 知っている顔は全然見かけてないし」


 ぐるりと周囲を見渡せる――視点を変えれば、周囲のどこからでも目撃されやすい公園内の中央に位置したベンチを選び陣取ると、士郎と共に腰を下ろした凛であったが、早々に洩らしたのは、そんな不満の弁であった。

 昼間は家族連れや恋人達に限らず様々な年代層で賑わう海浜公園であったが、如何せんまだ早朝の時間帯である。
 ベンチに腰掛けて仲睦まじく愛を語らうような頃合いには少々早過ぎると言えよう。

 周囲を見渡すと、犬の散歩をしている人達や、健康の為だろうジョギングをしている人達が見受けられる以外は、のんびりと寛いでいる人達の様子は殆ど見受けられず、実に閑散とした有様であった。


「なあ、遠坂。 なんでそんなに不満そうなんだ?
 混み合っているよりも、こうして空いている方が、この広い公園を貸し切りにしているみたいで気持ちいいと思うんだが。
 それに知っている顔を見かけていない――って、誰か探しているのか?」


「べ、別に不満だなんて思ってないわよ。
 それから誰かを探している訳でもないし――とにかくお弁当を食べましょ。
 この私が朝早くからサンドイッチを作ってあげたんだから、光栄に思いなさいよね」


 ごまかすように声を荒げた凛であったが、この状況に不満の念を抱いている事は言うまでもあるまい。


(折角、士郎との熱愛ぶりを皆にピーアールする為に早起きしてきたって言うのに、これじゃ計算外だわ。
 もう少し人が集まる場所と時間帯のデータを取ってから策を講じるべきだったかしら……)


 昨日、綾子に忠告された事が気に掛かって仕方がなかったのだろう。
 周囲から恋人関係は偽装であろうと思われている事が気に障り、あげくには誤解であると認識しているが士郎の浮気疑惑まで浮上していると耳にして、彼女が看過できる筈も無かった。

 綾子からの指摘の中で提示のあった“街中で――たとえば新都あたりで遠坂と衛宮がデートしている光景を見た奴が居れば――”という具体例を、まるで暗示に掛けられてしまったかのように実行に移してしまった訳である。

 確かに、彼女――遠坂凛は、学園一の美少女と言っても過言ではないその容姿とは反比例するように異性との恋愛経験には乏しく、また魔術師としてのスタンスも手伝ってか日頃から人込みを避けてきた傾向にあった。

 しかし、少しばかり冷静に鑑みれば、いくら世間は狭いといえども、急速に再開発され近代的な商業地区となった新都で、同じ学校に通う同級生や知人とばったり出会う可能性など、かなり低い確率である事に気付くものだろう。
 視点を変えれば、衛宮士郎が絡むと冷静さを失ってしまう遠坂凛――という事であろう。

 のんびりと朝食に時間を費やし、かなりの時間をそのベンチで過ごした二人であったが、結局、凛の思惑に反して、二人の事を知る人物が彼女の視界に入る事は無かった。
 かなり注意深く周囲を見渡し続けた為だろう――ゆったりと寛いだ様子の士郎とは相反して、ぐったりと疲れ切った様子の凛の姿がそこにあった。


「おい、遠坂――随分と疲れているみたいだし、今日は予定を変えて家に帰ってのんびりした方がいいんじゃないか?」


「な、なにを言ってるのよ!
 私はちっとも疲れてなんかないわ!
 ほら、そろそろ場所を変えましょ。
 ――そうよ、きっと場所が悪いのよ」


 そう言ってその場から腰を上げ、ぐいぐいと士郎の手を引っ張って公園内を歩き始める凛であった。
 彼女の作戦においては、仲睦まじく公園を散策する恋人同士――という設定であったが、客観的には、怒りを買った美少女によって引回しの刑に処されている少年の図である。

 海浜公園の端から端へ――そしてUターンして再度端から端へ。
 既に陽はかなり高く昇っており、園内はかなりの賑わいになっていた。
 人の波を縫うように歩き続ける二人であったが、これでは忍耐強い士郎とはいえ、さすがに我慢し続ける事は難しい。


「なあ、遠坂――そろそろどこかで休まないか?
 喉も渇いた事だし、喫茶店にでも入って――」


「そうね、次はその手が良いわ!
 こんな風に闇雲に歩き回っても効果は期待できないのかもしれないし!
 やはり、定点観測が基本よね!」


「おーい、遠坂サン? 聞いてます?」


 何としても、士郎とラブラブな所を学校の知り合いに見せ付けてみせる!――という少々歪んだ闘志を見せて、士郎の手を握り締めたまま、彼をぐいぐいと引っ張っていく凛であった。

 そしてそのまま、海浜公園を抜けて、人通りの多いショッピングセンター街へ向かっていく。
 陣を構えるなら、街外れよりも買い物客の多い場所に位置している店が良いと踏んだのであろう。


「ここね! ここが良いわ!」


 小奇麗な店構えの喫茶店を選んだ凛であった。
 何より、この店は道路に面した窓がかなり大きい。
 また、行き交う人の年齢層も比較的同年代の男女が多いと感じた点も評価した部分であった。

 そして店内に入るなり、周囲をぐるりとひと眺めした後、もっとも外から目立つであろう席を陣取った凛であった。
 そんな素早い彼女の行動に、二人を席まで案内しようとしていたウェートレスが思わず困ったような苦笑いを浮かべてしまう。
 そのウェートレスに非礼を詫びた後、凛と向かい合うように席に腰掛けた士郎であったが、その面持ちにはだんだんと不満の色が浮かび始めていた。

 一言二言、苦言を口にしようかと思ったのか――凛を睨みながら口を開けた士郎であったが、彼女が全くこちらを見ていない事に気が付くと、注意をする気持ちすら薄れてしまったのだろう。
 そのまま押し黙ってしまった士郎であった。

 それからの約2時間、士郎は沈黙したまま、凛の態度の変化を待った。
 その間、彼女はというと、ずっと通行人を監視し続け、時折「あ! こっちに向かって歩いてくるあの子は確か弓道部の1年生ね!――って、こらっ、なんで私達に気付かずに通り過ぎちゃうのよ!」とか、「今度こそっ! 確かあの子は隣のクラスの――って、また気が付かずに通り過ぎちゃって!」――などと、ひとりで声を荒げていたのであった。

 凛は店内に入る前に気が付かなかったのであろうが、この喫茶店の窓はマジックミラーの仕様になっており、店内からは外が見渡せるものの、外からは店の中の様子が窺える筈が無かったのである。

 結局、店内で時間を無駄に費やし、その後はウィンドーショッピングへと連れ立った二人であるが、ここでも凛は周囲の視線を気にするばかりで、士郎との会話など殆どなく推移していったのであった。

 既に時計の針は4時を過ぎ、早朝は快晴であった空も、気が付くと士郎の胸の内を示すかのように鉛色の厚い雲に覆われていた。
 そして――溜まりに溜まったフラストレーションが臨界点に達したのだろう。
 凛に引っ張られ歩き続けていたその足を止めて、不意に士郎は立ち止まった。


「どうしたの? 士郎。
 急に立ち止まったりして」


 ようやく立ち止まって彼の方を向いた凛に、士郎は声を荒げたりせず、静かに話し始めた。


「なあ、遠坂。 こんな無意味な事を続けていて楽しいのか?」


「え? あ――」


 士郎が怒っている。
 洞察力に長けている彼女であったが、自身の策に溺れ周囲に気を取られすぎていて、肝心の彼の表情の変化を見落としていた為に、何故彼が怒っているのか理解できず、ただ口篭ってしまう凛であった。


「俺はさ、遠坂と久しぶりにデートできる事を喜んださ。
 そして、今日は一日二人きりで楽しもうと思ったし、こういう事には不慣れな俺だけど、精一杯遠坂をエスコートしようと思っていたんだ。

 けれど――遠坂は俺を見てなかった。

 何が気になっていたのか知らないが周囲ばかり気に留めていて、ちっとも俺の方を向いてくれなかったよな。

 こんな一日を遠坂は楽しかったのか、それが知りたい」


「し、士郎――」


「先に言っておくけどさ、俺は楽しくなかった。
 こんなデートなら二度としたくない」


 彼にそんな意図は全く無かったのであろうが、その一言は“決別”の意を彼女に感じさせた。

 そしてようやく凛は自身の過ちに気付いたのである。


 私はなんて馬鹿だったのだろう――と。

 脳裏に浮かんだのは、赤い外套の彼の背中。
 彼と――そう、アーチャーと約束したではなかったか。
 アイツが自分を好きになれるように頑張るから――と。

 衛宮士郎が“彼”の背を追って行かないように導くのは、他の誰でもないこの遠坂凛でなければならないというのに。

 魔術の道を極め、魔法の域へと挑戦していく事と同じぐらいに――いや、それ以上に衛宮士郎という男を思いっきりハッピーにしてみせるという事は、遠坂凛にとって生涯をかけて果たすべき大切な目標であったのだ。

 周囲からどんな風に思われていようと関係ないではないか。
 私がこの人から――衛宮士郎から信頼されていれば。
 衛宮士郎から愛されていれば、どんな困難が立ちはだかったとしても、勇気を持って進んでいける。


(それなのに――私は)


 幸せにしなくてはならない士郎を蔑ろにしてどうするのよ――?

 凛は激しく自身を責めたてた。
 こんな事では、彼のパートナーとして相応しくない――と。

 くだらない策略に没頭してしまい、何よりも大切な事を失念していた自身の言動を悔いた。
 しかし、自責の念に駆られて押し黙っている訳にはいかない。

 犯した過ちはきちんと反省し、償う必要があるだろう。
 だが、今、優先すべき事は他にある。

 そう――きちんと彼に謝らなくてはならない。


「ごめんなさい――士郎」


 周囲には行き交う多くの通行人がいる。
 しかし、凛は周囲の視線など微塵も気にはならなかった。


「ほんとうに――ごめんなさい」


 その場で凛は深々と頭を下げ、その姿勢のまま立ち尽くした。


「顔を上げてくれよ、遠坂。
 ごめんな――責めるつもりは無かったんだが、結局はそんな口調になっていたよな、俺。
 俺の方こそ、本当にごめん」


「そんな、謝らないでよ、士郎。
 今日の事は全て私が悪いんだから」


 逆に頭を下げようとする士郎を制した後、凛は正直に今日のデートの目的を話し始めた。

 改めて口にする事など極めて恥ずかしいその振る舞いであったが、包み隠さずに昨日の弓道場での綾子との会話の内容や、その事が元になってセイバーと士郎の仲について嫉妬心を抱いてしまった事――そして周囲の目から見ても、自分と士郎が揺ぎ無い恋人同士である事をしっかりと印象付ける為に今日のデートを画策した事――その全てを士郎に打ち明けたのであった。


「はあ――そんな理由でこんなデートをしようと思いついた訳なのか、遠坂」


「だから、こうして謝っているじゃない。
 本当にごめんね、士郎」


 溜め息を洩らしつつ、苦笑いを浮かべる士郎であった。
 もっとも、先程とは違って表情に怒気は感じられない。
 むしろその目は笑っているようにも感じ取れた。

 そんな彼の表情に安堵の思いを抱いたのだろう。
 自責の念から沈んでいるその面持ちは変わらなかったが、言葉を返した凛の口調はどこか明るさを取り戻しつつあった。


「いや、でも理由を聞いたら、むしろ嬉しくなったな。
 まさか遠坂が、俺との関係が良好である事を周囲に知らせようと考えただなんてね」


「うう〜っ、もうその事を口に出すのは勘弁してよ〜。
 士郎のいじわる」


 恥ずかしい思いはしたものの、正直に吐露して良かった――と心から感じた凛であった。

 元々些細な事であり、この程度の事で二人の仲が壊れてしまうようなものでは無かっただろう。
 しかし、ほんのひとときとはいえ、凛は士郎から愛想を尽かされてしまうのではないかと危惧した。


 後に――二人が結婚して子供が産まれた頃に、彼女がその時の思いを振り返るように士郎に告げると、「なに、言ってるんだ。いつ愛想を尽かされて捨てられてしまうのかと不安だったのは俺の方だぞ」――と苦笑いを浮かべながら答えたそうである。

 無論、間髪置かずに「なんで私がアンタを捨てるのよっ! 太陽が西から昇ることがあっても、そんなコトは――!」と、強く主張しながらコークスクリュー気味の右フックを放つ奥様の姿があった事は言うまでもあるまい。


 閑話休題。


 ようやく互いに笑顔を取り戻し――既に夕刻と言える頃合いではあったものの、改めてデートのやり直しをどちらからともなく提案し、手と手を繋いで歩き出そうとした――その時である。
 先程までの凛の胸の内を示すかのように、今にも泣き出しそうであった鉛色の空から、ぽつりぽつりと大きな雨の雫が降り始めた。


「まずいな、これは。
 本降りになりそうな感じだな」


 いつもならきちんとその日の天気予報をチェックしてから外出する士郎であったが、今朝は凛に急かされるようにして支度した為に、テレビや新聞等を見る時間すら無かったのである。


「あん、もう。折角デートのやり直しをしようと思っていたのに!」


 恨むように天を見上げつつ、これもやっぱりここ一番というところで大ポカをやらかす遠坂家の宿命かしら?――と思い浮かべる凛であった。
 もっとも、天候状態は家系やら大ポカやらと関係はあるまい。


 その遠坂家の宿命と言うべき“大ポカ”の伝統は、むしろこれから本領を発揮するのである。


「とりあえず、雨宿りできる所へ入ろう。
 コンビニとか、ファーストフードの店とか――」


「そうね! 手近な所で探しましょ!」


 まだ5月だと言うのに真夏の頃の夕立のように、アスファルトを打ち付ける雨音が激しさを増して行き、周囲の様子が見辛くなるほどに土砂降りと化した大粒の雨が二人を襲う。
 唐突な激しい雨は冷静な判断力、そして観察力を失わせる時がある。
 特に自身の過ちによって、士郎に不快な思いをさせてしまった凛としては、それが自分の責任ではない天候の変化であったとしても、これ以上、彼を不快な気分にさせたくない――という気持ちが強く働いたのだろう。

 そう――雨宿りに適した“場所”は、なんとしても自分が見つけたい。
 雨が降っても快適に過ごせて、なおかつ、恋人同士が立ち寄る場所として相応しい所を探さなくてはならない――と、強迫観念に近い思考が凛の冷静さを奪いとってしまったのか。

 ふと――彼女の目に留まったのは、激しい雨の中、仲睦まじくとある建物の中へと入っていくカップルの姿であった。

 見ると、とても色彩豊かなネオンで彩られた看板が入口にあり、そのビルの入口付近は正面からは容易に中の様子が窺えないように、風防も兼ねたコンクリートの壁で覆われている。

(いったい何のお店かしら?
 でも、ついさっき若い男女が中に入っていったし、きっとカップル向けの落ち着いた雰囲気を味わえるお店に違いないわ)


 ある意味、確かにその建物はカップル向けの場所であった。
 また、落ち着けるかどうかは別として、“休憩”が出来る空間である事も間違いはなかった。


「士郎っ、ここで雨宿りしていきましょ!」


 迷っていたら、ますます雨に打たれて濡れてしまう。
 半ば強引に士郎の腕を引きながら、そのビルの入口へと向かう凛であったのだが――。


「な!? ちょ、ちょっと待てっ、遠坂っ!
 ここはダメだろっ!
 いや、将来的には遠坂と一緒に入ってみたい気はあるけど、今はまだダメだっ!」


「なに言ってるのよ、士郎。
 いつかは入りたいと思っていたなら好都合じゃない。
 ここでちょっと休憩していきましょ」


「いや、その――確かにここは“休憩”できる所だが、厳密には“ご休憩”という言い方が正しくてだな。
 とにかく、高校生の身分でこんな所に入っちゃいかんだろっ」


 とあるその建物の入口付近で――。
 既に半歩は中に足を踏み入れている美少女ひとりと、その女の子に強引に引き摺られながらも、何とかその場で立ち止まろうとしている少年ひとり。

 降りしきる雨の中、少女と少年による攻防戦が展開されていた――まさにその時である。


「おーい、遠坂。それに衛宮もいるのか。
 こんな所で何をしてるんだ?!」


 天の悪戯か。
 それともまさしく夕立の如く、激しい雨は一過性のものであったのか。
 つい先程までバケツを引っくり返したように降っていた雨は、気が付くと小雨程度に納まっていて、彼女と彼を呼び掛けたその大きな声は辺り中に響き渡った。

 呼び掛けられた少女と少年――そう、凛と士郎は、唐突に名を呼ばれた事に驚きながら、声のあがった方へと視線を向ける。


 すると――そこには。


“私立穂群原学園・陸上部”と車体側面に表記された1台のマイクロバスが信号待ちで停車しており、その前列窓際に陣取っていた少女が窓を開けて、凛と士郎へと声を掛けていたのである。


「げ――蒔寺」


 早朝からつい先程まで、凛の策略展開中においては、どんなに待ち望んでも、知り合いには会えなかったと言うのに、よりによってこんな場所の前で――と、激しく動揺してしまったのだろう。
 その目撃者の名を辛うじて口にした後は、ぱくぱくと酸欠気味の金魚のように口を開けたり閉じたりするばかりで、声が出てこない士郎。

 しかも、目撃者は士郎が名を呼んだその少女ひとりではない。


「蒔の字。こんな風紀上問題のある如何わしいホテルの入口の前で、今まさに中に入ろうかとしている男女だ。
 何をしているか?――とは愚問だろう。
 “何をしているか?”ではなく、まさにナニをしにきたカップルの図に他あるまい」


 明確にその光景を表現したのは氷室鐘であった。
 更にはふるふると身を震わせていた三枝由紀香までも、窓から顔を覗かせて大きく口を開いた。


「うそっ――信じられないよ。
 遠坂さんと衛宮くんが、ららら、らぶっ、らぶっ、ラブホテルにっ、入ろうとしていたなんてっ!」


 普段、大人しい人物ほど、いざとなると大きな声が出るものなのかもしれない。
 お願いですからもう勘弁して下さい――という様相の士郎を他所に、彼女の声は辺り一面に響き渡ったのであった。


 その後は――所謂“祭り状態”である。

 信号が青に変わり、某学園所属のマイクロバスが発車するまで、バスの全ての窓が開け放たれ、車内に居た大勢の陸上部の女子生徒達の黄色い声が辺りを支配し――その間、凛と士郎は、ライダーの魔眼で射抜かれたように、ただ呆然とその場で固まったままであったのだった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






「ときに――アンタと、アンタの彼氏の衛宮士郎の事だけど」


 明けて翌週の月曜日。
 嵐のような質問攻めにあった午前中を終えて弓道場に避難していた凛を待ち構えていたのは美綴綾子であった。

 つい先週の金曜日の昼休みに似たような会話をした筈であるが――それも既に遠い昔の出来事のようですらある。


「その質問はもう勘弁して……。
 数えてないけど、三桁に達するぐらいの質問攻めにあって、ここに逃げ延びてきたんだから」


 ぐったりとこうべを垂れて肩を落としている図の凛の姿に、「判った、武士の情けだ」と言葉を返した綾子であったのだが――。
 どちらが先に彼氏を作るか――という賭けに敗北した屈辱を少しぐらい返しておいてもバチは当たるまいと考えた彼女は、少しばかり思い巡らせて幾つか考えた候補の内、三番目ぐらいにダメージがあるだろうと判断したその一言を口にしたのであった。


「なあ、遠坂――気持ちは判るが――」


 ああ、そう言えば、このセリフは少し前に観ていたアニメのヒロインのセリフでもあったと思い出しながら、綾子はこう続けたのである。



「――エロスは程々にな」







 人の噂も七十五日。
 その言葉通りなら、あと2ヵ月半ぐらいは、からかい続けられる事だろう。

 どんな時でも余裕を持って優雅たれ――という家訓からはかなり逸脱した状態になってしまった凛であったが、ポジティブな視点で見れば、これで士郎と凛に対して、偽装の恋人関係だと噂する者は皆無となった事だろうし、士郎に対して手を出そうとするような女生徒も限りなくゼロに近付く事だろう。

 そういう意味では、遠坂凛の策略は、一応成功したと言えるのかもしれない。





- おわり -


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